長春 満州国時代の建築 Architecture of Manchukuo era
日本統治時代の朝鮮、台湾そして満州国の建築を5回シリーズでブログしたいと思います。
《 満州国宮殿内廷絹煕楼 》
《 満州国宮殿内廷同徳殿 》
現:偽満宮博物院 設計:満州国総務庁需用処営繕科 竣工:1938年
いまの日本と中国、韓国との政治的状況の中で取り上げるには微妙なテーマです。「政治的な意図はありません」と言っても、彼らにとっては負の遺産であり、あまりふれて欲しくない建築かもしれません。
「なぜ」と問われれば、そこに建築があれば出自はともかくとして、観てみたい、調べてみたい、ブログしてみたい、そんな抑えきれない探究心の発露だと思ってください。
第3回は満州国時代の長春です。
満州国は、満州事変の翌年1932年に中国東北部(旧満州)につくられた独立国です。清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)が執政のちに皇帝として君臨していました。
1945年、日本の太平洋戦争降伏により崩壊しました。
満洲国は、建国以来、日本特に関東軍の支配下にあり、実態は日本の傀儡国家でした。
とはいえ、当時ドイツをはじめ10箇国を超える国々が独立国として承認していました、その点が単なるコロニアルだった朝鮮、台湾と異なります。
現代の中国では、満洲国を歴史的な独立国として見なさない立場から、「偽満洲国」と表記します。
満州国の首都は新京(現在の長春)におかれました。
長春には満州国時代の建築が数多く遺されています。各建築には、「偽満洲国」時代の名称やその特徴が記された銘板が置かれ文化財として保護されています。
韓国では建築の説明に「日本統治時代」という文言を見たことがありません、したがって事情を知らない人は出自を知るすべがないのです、この点が台湾や中国と様相を異にしています。
満州国皇帝に関する建築は、3つ遺されています。
勤民楼は、外廷の仮宮殿として整備されました、ただし皇帝は満州国崩壊までここで執務をしました。外国要人との謁見なども行われフォーマルな宮殿として機能していました。
外廷に対して、絹煕楼は皇帝のプライベートな空間・内廷として寝室、書斎などが配置されました。
さまざまな事情により、さらに新たにプライベート空間として同徳殿が建てられました。
《 満州国宮内府勤民楼 》
現:偽満宮博物院 設計:不詳 竣工:1912年

《 満州国宮殿内廷絹煕楼 》
現:偽満宮博物院 設計:不詳 竣工:不詳


《 満州国宮殿内廷同徳殿 》
現:偽満宮博物院 設計:満州国総務庁需用処営繕科 竣工:1938年


《 関東軍司令部 》
現:中国共産党吉林省委員会 設計:関東軍経理部 竣工:1934年
象徴的で大変解りやすいです、この地の主が関東軍から共産党に移ったのです。
外観は日本のお城をモチーフにしています、天守閣が偉容を誇っています。

《 関東軍司令官官邸 》
現:松苑賓館 設計:関東軍経理部 竣工:不詳
イギリス式庭園に囲まれ、内部に入ると大小の食堂、ビリヤード室などがあり、規模、仕上げの程度は皇帝の住居の上を行きます。

《 満洲国国務院 》
国務院とは満州国の中枢機関です。洋式建築に和風の屋根をかけたデザインは、帝冠様式と呼ばれ、多くの満州国官庁建築に採用されました。

《 満洲国交通部 》
現:吉林大学公共衛生学院 設計:満州国営繕需品局営繕処 竣工:1937年
妻壁をレンガ積みとした切妻屋根です、中国建築によくみられるスタイルです。

《 満洲国司法部 》
現:吉林大学白求恩医学部 設計:満州国総務庁需用処営繕科 竣工:1936年
満州産の瑠璃瓦で葺かれた屋根の組み合わせが見どころです。

《 満洲国軍事部 》
現:吉林大学白求恩医学部付属第一病院 設計:満州国営繕需品局営繕処 竣工:1936年
直角に交わるコーナーに正面をもってきました。建設当時、設計に対する評価は低かったそうです。

《 神武殿 》
現:吉林大学鳴放宮 設計:宮地二郎 竣工:1940年
神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を記念して建てられました。

《 満洲国中央銀行 》
現:中国人民銀行 設計:西村好時 竣工:1938年
ドーリック・オーダーの列柱が偉容を誇っています。外観は台北の銀行と共通するものがあります。

《 敷島通給水塔 》
現:西広場東南水塔 設計:満鉄地方部工事課 竣工:1933年
満州国政府は、各個別の建築を建てるだけではなく、首都としての都市計画を策定し、道路、広場、公園、上下水道などの都市インフラを整備しました。
いま見られる長春の骨格は満州国時代に出来上がったのです。

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