ソウル 日本統治時代の建築 Architecture during the Japanese colonial era
日本統治時代の朝鮮、台湾そして満州国の建築を5回シリーズでブログしたいと思います。
いまの日本と中国、韓国との政治的状況の中で取り上げるには微妙なテーマです。「政治的な意図はありません」と言っても、彼らにとっては負の遺産であり、あまりふれて欲しくない建築かもしれません。
「なぜ」と問われれば、そこに建築があれば出自はともかくとして、観てみたい、調べてみたい、ブログしてみたい、そんな抑えきれない探究心の発露だと思ってください。
このシリーズでブログする建築の名称、設計者、竣工年などは、藤森照信監修 < 全調査東アジア近代の都市と建築 > に原則依っています。
第1回は日本統治時代のソウル(京城)です。
日本統治時代の朝鮮とは、1910年の大日本帝国による日韓併合から、1945年の太平洋戦争降伏による朝鮮総督府の解体までの35年間をいいます。
ソウルのメインストリートの一つである、南大門路から太平路、世宗路を経て景福宮の光化門に至る片側8車線の広い道路は、日本統治時代に、軍事上の理由により拡張整備されました。
その道路沿いに日本統治時代の朝鮮を代表する拠点施設が建設されました。
韓国にある日本統治時代の建築をめぐっていると、案内板にその建築が日本統治時代は何だったかの記述がほとんどありません、彼らにとってはまさに負の遺産なのでしょう。
《 京城駅 》
現:ソウル駅ただし駅舎機能はない、文化施設 設計:塚本靖 竣工:1925年
竣工当時は東京駅に次ぐ東洋第2の規模の駅舎でした。京城駅は満州方面の国際列車の発着など、大陸進出の窓口として朝鮮半島の鉄道輸送の中心的役割を担っていました。

《 京城府庁 》
後:ソウル市庁 現:ソウル図書館 設計:岩井長三郎 竣工:1926年
背後にある曲面のガラスカーテンウォールに被われた建築は、新ソウル市庁舎です。
前面にはローソクデモなどニュースでおなじみの、多くの市民が集まる広場となっています。


《 朝鮮総督府 》
後:国立中央博物館 1995年解体撤去 基本設計:デラランデ 実施設計:野村一郎
竣工:1926年
竣工:1926年
世宗路を南に向かうと、軸線上に豊臣秀吉の朝鮮出兵を退けた韓国の英雄、李舜臣の銅像がまず目に入ってきます。さらに進むと、再々建された光化門をはじめとする、李氏朝鮮王朝の王宮である景福宮(キョンボックン)の建築群が正面に展開しています。
しかし1995年まではいまの光景とはだいぶ異なります。
光化門のうしろには、朝鮮統治の象徴である朝鮮総督府庁舎が圧倒的な存在感をもって鎮座していました、すなわち景福宮は世宗路からはみることができなかったのです。この配置は、支配者が交代したことを、朝鮮の人々に知らしめる効果をねらったものなのでしょう。



《 朝鮮銀行本店 》
後:韓国銀行本店 現:韓国銀行貨幣金融博物館 設計:辰野金吾 竣工:1912年
上記3つの建築から少し離れた明洞(ミョンドン)地区にあります。
当初、第一銀行韓国総支店として建設されました、その後は中央銀行として役割を果たしてきました。
辰野金吾は日本銀行本店も設計しました。
ルネサンス風ファサードは、いわゆる辰野調が冴えわたっています。
ルネサンス風ファサードは、いわゆる辰野調が冴えわたっています。

台北 日本統治時代の建築 Architecture during the Japanese colonial era
日本統治時代の朝鮮、台湾そして満州国の建築を5回シリーズでブログしたいと思います。
第2回は日本統治時代の台北(タイペイ)です。
日本統治時代の台湾とは、1985年、日清戦争の結果下関条約によって日本に割譲されたときから、1945年の太平洋戦争降伏による中華民国(台湾)に編入されたまでの40年間をいいます。
台湾の首都、台北(タイペイ)には、日本統治時代の建築が数多く残されています。スタジオヤマはその中から10作品を選びブログします。
これら作品群、あるものは当時の用途そのまま現役の建築として、またあるものは修復され博物館などとして生き永らえています。いずれの建築もメンテナンスがしっかりなされ大事に使われています。
この点が韓国の日本統治時代の建築に対する扱いとおおいに異なります。
理由として、当時の台湾は清朝の辺境であり未開の地に対し、韓国は弱体化したとはいえ国家が存在しソウルはその首都であった、韓国人にとっては「異民族支配」そのものであり、建築は「千年先まで消えぬ恨み」のシンボルであった、という説があります。
しかしこの説だけでは、台湾と同じような扱いを受けている旧満州国の建築を説明できません。スタジオヤマは、中国人の使えるものは使うという実利主義と、前の支配者の建築をすべて壊していたら都市の中に建築が無くなってしまう、という現実によるものだと思います。
〈 台湾に遺る日本統治時代の建築をさらに深く知るために 〉
片倉佳史さんの一連の著作をお勧めします。ヴォリュームの関係でこのブログに乗せなかった建築を含めて、ほぼ全ての現存する建築を網羅しています。
台北の書店ですごい本を見つけました。「日治台北城」です、日本統治時代の建築を写真ではなく、平面図、立面図、断面図などのイラストで紹介しています。イラスト作成には、建築的な調査・研究の裏付けが必要です。書店で平積みされていました、さすが親日的な国ですね。
《 台湾総督府 》
現:総統府 設計:長野宇平治/台湾総督府営繕課・森山松之助 竣工:1919年
日本で最初の設計競技により長野宇平治案が選ばれました。
創建時から現在もなお国の代表が執務している建築です。中央の塔の高さは60mあります、当時は高い建物がなかったため、台北市内どこからでも見えたそうです。



《 台湾総督府高等法院 》
現:司法大廈 設計:台湾総督府営繕課・近藤十郎 竣工:1934年
ネオ・ロマネスク様式のファサードと中央の塔とのバランスが見せどころです。

《 台北州庁舎 》
現:監察院 設計:台湾総督府営繕課・森山松之助 竣工:1915年
森山は辰野金吾(日本銀行本店設計者)の弟子です。レンガ壁の赤色に、花崗岩の白色帯を巡らせるいわゆる辰野スタイルがきまっています。

《 台湾銀行本店 》
現:台湾銀行 設計:西村好時 竣工:1938年
バロック調の壮大な列柱が、建築の威厳を表現しています。

《 台湾総督府博物館 》
現:台湾省立博物館 設計:台湾総督府営繕課 竣工:1915年
エントランス・ホールの吹抜け、天上のステンドグラス、それを支えるコリンシャン・オーダーの列柱が最大の見せ場です。

《 台湾総督府専売局 》
現:台湾省煙酒公売局 設計:台湾総督府営繕課・米重三郎 竣工:1913年
ひとつのスタイルにとらわれない折衷様式と、辰野スタイルの取り合わせが、ファサードの華やかさを演出しています。

《 台北帝国大学医学部付属病院 》
現:台湾大学医学院附設病院 設計:台湾総督府営繕課・近藤十郎 竣工:1916年
この建築も折衷様式と辰野スタイルでデザインされています。


《 台北郵便局 》
現:台北郵政局 設計:台湾総督府営繕課・栗山俊一 竣工:1930年
長春 満州国時代の建築 Architecture of Manchukuo era
日本統治時代の朝鮮、台湾そして満州国の建築を5回シリーズでブログしたいと思います。
《 満州国宮殿内廷絹煕楼 》
《 満州国宮殿内廷同徳殿 》
現:偽満宮博物院 設計:満州国総務庁需用処営繕科 竣工:1938年
いまの日本と中国、韓国との政治的状況の中で取り上げるには微妙なテーマです。「政治的な意図はありません」と言っても、彼らにとっては負の遺産であり、あまりふれて欲しくない建築かもしれません。
「なぜ」と問われれば、そこに建築があれば出自はともかくとして、観てみたい、調べてみたい、ブログしてみたい、そんな抑えきれない探究心の発露だと思ってください。
第3回は満州国時代の長春です。
満州国は、満州事変の翌年1932年に中国東北部(旧満州)につくられた独立国です。清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)が執政のちに皇帝として君臨していました。
1945年、日本の太平洋戦争降伏により崩壊しました。
満洲国は、建国以来、日本特に関東軍の支配下にあり、実態は日本の傀儡国家でした。
とはいえ、当時ドイツをはじめ10箇国を超える国々が独立国として承認していました、その点が単なるコロニアルだった朝鮮、台湾と異なります。
現代の中国では、満洲国を歴史的な独立国として見なさない立場から、「偽満洲国」と表記します。
満州国の首都は新京(現在の長春)におかれました。
長春には満州国時代の建築が数多く遺されています。各建築には、「偽満洲国」時代の名称やその特徴が記された銘板が置かれ文化財として保護されています。
韓国では建築の説明に「日本統治時代」という文言を見たことがありません、したがって事情を知らない人は出自を知るすべがないのです、この点が台湾や中国と様相を異にしています。
満州国皇帝に関する建築は、3つ遺されています。
勤民楼は、外廷の仮宮殿として整備されました、ただし皇帝は満州国崩壊までここで執務をしました。外国要人との謁見なども行われフォーマルな宮殿として機能していました。
外廷に対して、絹煕楼は皇帝のプライベートな空間・内廷として寝室、書斎などが配置されました。
さまざまな事情により、さらに新たにプライベート空間として同徳殿が建てられました。
《 満州国宮内府勤民楼 》
現:偽満宮博物院 設計:不詳 竣工:1912年

《 満州国宮殿内廷絹煕楼 》
現:偽満宮博物院 設計:不詳 竣工:不詳


《 満州国宮殿内廷同徳殿 》
現:偽満宮博物院 設計:満州国総務庁需用処営繕科 竣工:1938年


《 関東軍司令部 》
現:中国共産党吉林省委員会 設計:関東軍経理部 竣工:1934年
象徴的で大変解りやすいです、この地の主が関東軍から共産党に移ったのです。
外観は日本のお城をモチーフにしています、天守閣が偉容を誇っています。

《 関東軍司令官官邸 》
現:松苑賓館 設計:関東軍経理部 竣工:不詳
イギリス式庭園に囲まれ、内部に入ると大小の食堂、ビリヤード室などがあり、規模、仕上げの程度は皇帝の住居の上を行きます。

《 満洲国国務院 》
国務院とは満州国の中枢機関です。洋式建築に和風の屋根をかけたデザインは、帝冠様式と呼ばれ、多くの満州国官庁建築に採用されました。

《 満洲国交通部 》
現:吉林大学公共衛生学院 設計:満州国営繕需品局営繕処 竣工:1937年
妻壁をレンガ積みとした切妻屋根です、中国建築によくみられるスタイルです。

《 満洲国司法部 》
現:吉林大学白求恩医学部 設計:満州国総務庁需用処営繕科 竣工:1936年
満州産の瑠璃瓦で葺かれた屋根の組み合わせが見どころです。

《 満洲国軍事部 》
現:吉林大学白求恩医学部付属第一病院 設計:満州国営繕需品局営繕処 竣工:1936年
直角に交わるコーナーに正面をもってきました。建設当時、設計に対する評価は低かったそうです。

《 神武殿 》
現:吉林大学鳴放宮 設計:宮地二郎 竣工:1940年
神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を記念して建てられました。

《 満洲国中央銀行 》
現:中国人民銀行 設計:西村好時 竣工:1938年
ドーリック・オーダーの列柱が偉容を誇っています。外観は台北の銀行と共通するものがあります。

《 敷島通給水塔 》
現:西広場東南水塔 設計:満鉄地方部工事課 竣工:1933年
満州国政府は、各個別の建築を建てるだけではなく、首都としての都市計画を策定し、道路、広場、公園、上下水道などの都市インフラを整備しました。
いま見られる長春の骨格は満州国時代に出来上がったのです。

瀋陽 ハルピン 満州国時代の建築 Architecture of Manchukuo era
日本統治時代の朝鮮、台湾そして満州国の建築を5回シリーズでブログしたいと思います。
第4回は満州国時代「奉天」と称していた瀋陽とハルピン(哈爾浜)です。
瀋陽は満州国時代から東北地方最大規模の都市であり、経済・文化・交通および商業の中心地でありました、現在でも中央直轄市としてさらなる成長を続けています。
また瀋陽は、中国最後の王朝である清朝を打ち立てた満州族ゆかりの地です。
王朝ゆかりの瀋陽故宮、東陵、北陵などが世界遺産に登録されています。
《 張作霖官邸 大青楼 》
現:張氏師府博物館 設計:不詳 竣工:1922年
張作霖(1875年-1928年)は、満州国時代の軍閥政治家(卑俗な言い方をすれば馬賊の頭目)です。当時の奉天に本拠地を置き、一時は「満洲王」と呼ばれるほどの威勢を誇りました。
1928年関東軍の謀略により、乗っていた列車ごと爆破され重傷をおい死亡しました。その後満洲は1931年の満洲事変、翌年の満州国独立と一気に歴史は動いたのです。


《 奉天日本総領事館 》
現:瀋陽迎賓館 設計:三橋四郎 竣工:1912年
満州に置かれた日本の在外公館の代表的な建築です。
三橋四郎は瀋陽のほか長春、吉林、牛荘の領事館を設計しています。

《 満鉄奉天公所 》
現:瀋陽市少年児童図書館 設計:荒木清三 竣工:1924年
瀋陽故宮の近くにあります、そのため故宮に配慮したのでしょうか、外観は中国の宮殿建築をモチーフにしています。

《 京奉鉄道奉天駅 》
現:瀋陽鉄路分局ビル 設計:基泰工程司 竣工:1930年
中国の駅舎では、現在でも待合ホールをヴォールト屋根で覆うデザインが多くみられます。

《 吉順糸房 》
現:第二百貨商店 設計:不詳 竣工:1925年
ファサードは、典型的な中華バロックスタイルでまとめられています。

満州国時代ハルピン(哈爾浜)の民間建築
19世紀末まで小さな漁村にすぎなかったハルピンが、1898年、ロシア帝国による満州を横断する東清鉄道の建設が開始されると、ロシア帝国の支配のもと、満州からロシア・ヨーロッパ方面への鉄道輸送の要衝として急激に成長し、近代都市へと大きな変貌を遂げました。
現在のハルピンは、中国最北部に位置する黒龍江省の省都で、中国東北部の経済、文化の中心のひとつとして発展を続けています。
《 キタイスカヤ 》
現:中央大街
キタイスカヤは1920年代「東方のパリ」と呼ばれ、東アジア有数の国際色豊かな繁華街でした。
現在はオープンエアーの建築博物館的様相を見せ、当時の繁栄ぶりを感じ取ることができます。

《 モデルン・ホテル Modern Hotel 》
現:馬迭爾賓館 設計:不詳 竣工:1913年
当時のハルピンを代表する豪華ホテルです。外観は改修されてしまいましたが、パラペットや窓のまわりにはアールヌーヴォー調のデザインが残されています。キタイスカヤにあります。


《 松浦洋行 》
現:教育書店 設計:不詳 竣工:1920年
近江商人の松浦吉松が創設した松浦洋行のビルです。ネオ・バロック様式の5階建で、当時ハルピンで最高の高さを誇りました。キタイスカヤにあります。


《 秋林洋行 》
現:秋林公司 設計:不詳 竣工:1908年
ロシア商人チューリンが開業したデパートです。現在でもハルピンを代表するデパートです。キタイスカヤにあります。
《 天豊源永記網緞雑貨店 》
現:華豊商場 設計:不詳 竣工:1915年
中華バロック様式の建築です。入口廻りを仔細に観てみましょう、入口両側のねじりんぼう円柱は、仏教のお堂基礎の上に立っています、柱頭の葉は白菜です、さらにその上に意味不明な球、そしてコリンシャン・オーダーが、入口を飾っています。
頭の中が混乱します、全体をみればまとまっているのではないでしょうか。
これが中華バロックです。
《 同義慶百貨店 》
現:純化医院 設計:不詳 竣工:1920年
中華バロック様式の外観が際立っています。

大連 旅順 満州国時代の建築 Architecture of Manchukuo era
日本統治時代の朝鮮、台湾そして満州国の建築を5回シリーズでブログしたいと思います。
第5回は満州国時代の大連と旅順です。
満州国時代の大連と旅順は、関東州(かんとうしゅう)の中心的都市として栄えました。関東州とは、ロシア帝国が清朝より租借していた領土が、1905年後日本に租借権が移行した地域で、日本はここで太平洋戦争終結まで、植民地経営をおこなっていました。
《 大連大広場 》
現:中山広場 設計:東清鉄道 竣工:1899年
大連の中心部にある中山広場は、ビスタを重視した直径213m円形広場です。10本の放射状道路が1点に集中しまた拡散していく壮大な都市計画によって整備されました。
広場の周囲には日本が関与した建築が7棟遺されています。
これらの建築をヤマトホテルから出発して時計まわりに紹介します。

《 大連ヤマトホテル 》
現:大連賓館 設計:満鉄工務課建築係・小野木考治・太田毅 竣工:1914年
ヤマトホテルは、その都市で最も格式のあるホテルとして満州国各地にありました。
クラシック・スタイルで統一されたファサードは秀逸です、広場を挟んで反対側にある横浜正金銀行大連支店とともに、大広場の両雄として君臨しています。


《 大連民生署 》
現:遼寧省対外貿易経済合作庁 設計:関東都督府民生部土木課・前田松韻 竣工:1908年
大広場に最初に建てられた建築です。ゴシック調のファサードはヨーロッパの民家のようです。

《 朝鮮銀行大連支店 》
現:中国工商銀行 設計:中村與資平建築事務所 竣工:1920年
設計者の中村は、満州、朝鮮に数多くの銀行建築を遺しました。

《 関東逓信局 》
現:大連市郵電局 設計:関東都督府民生部土木課・松室重光 竣工:1918年
入口廻りのファサードに注目です、日本的な要素が少しはいっています。

《 横浜正金銀行大連支店 》
現:中国銀行大連分行 設計:妻木頼黄・太田毅 竣工:1909年
三つのバロック様式のドームがデザインの肝です。ライトアップが大変見栄えします。後に建てられた高層の中国銀行と一体となって建築の存在感をアッピールしています。


《 東洋拓殖株式会社大連支店 》
現:交通銀行大連分行 設計:宗像主一建築事務所 竣工:1936年
設計者の宗像は中村與資平の弟子です。

《 大連市役所 》
現:中国工商銀行大連市分行 設計:関東都督府営繕課松室重光 竣工:1920年
入口廻りに注目しましょう。柱に東洋建築ふうの梁が貫通しています、そしてそれとはあまり関連のない全体のファサードのデザイン、はじめて観ました。


関東州を統括する関東総督府は当初瀋陽に置かれていました。1906年関東総督府が廃止され、旅順に移転・改組され関東都督府になりました。
《 関東都督府庁舎 》
現:使用されていません 設計:不詳 竣工:1903年
完全に閉鎖されています、人の気配がありません、朽ち果てようとしています。
願わくば他の「満州国時代の建築」と同じように、保存・活用していただきたいと切に思います。

