ハバナ Havana  キューバ都市彷徨

魅力あふれるキューバの都市、そのまちなかを流れ歩くのは実に楽しいものです。
都市の歴史・構造・成り立ちなどなどに、思いを巡らし観ているとその都市の全貌が迫って来ます。
まさに都市を読んでいるのです。
 
シリーズ最終回はハバナ(Havana)です。
キューバの首都ハバナは、キューバ島のフロリダ海峡に面する北西沿岸に位置し、カリブ海域諸国のなかで最大の都市です。
16世紀以降、スペインの新大陸における植民地経営の中核都市として、また貿易の主要な中継地として発展してきました。1959年のキューバ革命後も、首都としてのハバナの重要性は変わらず今日に至っています。そして1982年、旧市街は世界文化遺産に登録されました。
2015年7月、キューバとアメリカは、1961年に断交して以来じつに54年ぶりに国交を再開しました。
2016年後半からは、アメリカ各都市とハバナを中心としたキューバ各都市間の直行便が多数就航しました。これにより人と物の往来が飛躍的に増加するでしょう。
スタジオヤマは、5回連続のシリーズにおいて、あえて植民地時代の歴史的有名建築、キューバ革命に関する名所旧跡の写真ではなく、生活感あふれる街並みの写真を採用しました。その理由は、ハバナだけではなく、キューバのどの都市にもいえることですが、これからドラスティックに変貌していくでしょう都市のプロフィールを、写真として切取りたかったからにほかなりません。
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シエンフェゴス  Cienfuegos キューバ都市彷徨

魅力あふれるキューバの都市、そのまちなかを流れ歩くのは実に楽しいものです。
都市の歴史・構造・成り立ちなどなどに、思いを巡らし観ているとその都市の全貌が迫って来ます。
まさに都市を読んでいるのです。
 
4回目はシエンフェゴス(Cienfuegos)です。
キューバの中央部に位置し、カリブ海に面した都市です。
キューバでは珍しい、19世紀にフランスの植民都市として建設されました。当時は砂糖きび、マンゴ、タバコおよびコーヒーの生産と交易によって栄えました。
都市の街区は、規則ただしく碁盤目状に整備されており、19世紀から20世紀にかけて建設された、新古典主義の建築が数多く残されています。
旧市街は2005年に世界文化遺産に登録されました。
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トリニダー Trinidad キューバ都市彷徨

魅力あふれるキューバの都市、そのまちなかを流れ歩くのは実に楽しいものです。
都市の歴史・構造・成り立ちなどなどに、思いを巡らし観ているとその都市の全貌が迫って来ます。
まさに都市を読んでいるのです。
 
3回目はトリニダー(Trinidad)です。
キューバ南部に位置するトリニダーは、15世紀ごろからスペイン人によって開発され、奴隷と砂糖貿易の中心地として栄えました。
街の中心部オールドタウンには、丸石で舗装された街路や、パステルカラーに塗装されたコロニアル建築群が、よく保存されており街全体が博物館のようです。
キューバの都市のなかでも、最も美しい都市のひとつでしょう。
1988年、世界文化遺産に指定されました。
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カマグエイ Camagüey  キューバ都市彷徨

魅力あふれるキューバの都市、そのまちなかを流れ歩くのは実に楽しいものです。
都市の歴史・構造・成り立ちなどなどに、思いを巡らし観ているとその都市の全貌が迫って来ます。
まさに都市を読んでいるのです。
 
2回目はカマグエイ(Camagüey)です。
カマグエイは、キューバの中部に位置し、首都ハバナからは南東へ約550kmの場所にあります。
街の中心部である歴史地区は、16世紀に建設され19世紀まで、スペイン領西インド諸島の経済的な中心地でありました。
コロニアル・スタイルの建築が多く残る歴史的街並みは、2008年に世界文化遺産に登録されました。
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サンチャゴ・デ・クーバ Santiago de Cuba  キューバ都市彷徨

魅力あふれるキューバの都市、そのまちなかを流れ歩くのは実に楽しいものです。
都市の歴史・構造・成り立ちなどなどに、思いを巡らし観ているとその都市の全貌が迫って来ます。
まさに都市を読んでいるのです。
 
最初に流れ歩くのは、サンチャゴ・デ・クーバ(Santiago de Cuba)です。
サンチャゴ・デ・クーバは、キューバ南東部に位置し2番目に大きい港湾都市です。
また1523年から半世紀あまり、スペイン植民地時代の首都として栄えた古都の顔を併せ持ち、キューバ革命の端緒となった、モンカダ兵営の襲撃事件が勃発した地でもあります。  01-170108
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ニューヨークの超高層建築をバード・アイで観る   New York USA

ニューヨーク(New York)の超高層建築をインセクト・アイの目線から、高さを上げてバード・アイで観てみました。同じ都市の光景が様変わりする様子が興味深いです。

ロックフェラー・センターは、大富豪のジョン・D・ロックフェラーによって1930年から建設された19のビル群の総称です。その中で最も高いGEビルディングの67階と69階と屋外の70階にある展望台トップ・オブ・ザ・ロックからは、エンパイヤ・ステート・ビルディングが正面に遠くにWTCが見えます。さら展望台の反対側から見たセントラルパークへの眺望が秀逸です。
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エンパイヤ・ステート・ビルディング(The Empire State Building)は、1931年に完成しました。低層部およびエントランス・ホール、そして頂部には当時のモダンデザインであるアール・デコ様式で美しく飾られています。映画好きの方なら、キング・コングがよじ登っていくビルと言った方が分かりやすいかもしれません。
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以前からある2箇所の展望台に加えて、2015年5月にワールドトレードセンター・ワンの100階から102階のワン・ワールド・オブザーバトリーがオープンしました。
これによりニューヨークで鳥瞰(bird's eye view)を楽しめる展望台が3箇所になりました。
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ニューヨークの超高層建築をインセクト・アイで観る  New York USA

ものを観る方法には、目線の高さから2つあると思います。
一つはグランド・レベルから仰瞰(ぎょうかん)でみる方法、虫の目で見ているようなので虫瞰(insect's eye view)ともいわれます。もう一つは高いところから俯瞰(ふかん)でみる方法、虫の目に対して鳥の目で見ているようなので鳥瞰(bird's eye view)ともいわれます。
ニューヨークの超高層建築をインセクト・アイで観てみました。

ニューヨークを訪れるのは2001年4月以来です。
現在この世界的な大都市で超高層建築に限っていえば、一番注目を集めているプロジェクトは、ワールドトレードセンター(WTC)の再建でしょう。
かつてスタジオヤマが観たWTCは、7棟の超高層ビルで構成されていました。その中心のツインタワーは、日系米国人のミノル・ヤマサキの設計により1973年に完成しました。当時世界一の高さを誇り、2棟の巨大な立方体が並び立つ姿はマンハッタンのシンボルでした。スタジオヤマが訪れた時、ガスっていてトップが霧の中で地上から見えませんでした。これが摩天楼かと納得したものです。
2001年9月、WTCはアルカイダによるテロ攻撃により崩壊しました。
残骸撤去と行方不明者および遺体の捜索が2011年末まで行われ、その後再建工事が始まりました。
当初再建案は、世界の建築家による競技設計(コンペ)で、ドイツ在住の建築家ダニエル・リベスキンドの「メモリー・ファウンデーション」が選ばれました。しかしこの案はモニュメント性に重きをおいたため、不動産事業としては難がありました。紆余曲折の末、最終的には、米国大手設計事務所SOM(シカゴのブログ参照)のマスタープランにより事業がすすめられました。
WTCは、WTC1からWTC7の6棟の事務所ビル、トランスポーテーション・ハブと呼ばれる交通施設がかつてのツインタワー跡地を取り囲むように配置されています。コンプレックスの中心となるWTC1は、SOMの設計により2006年に着工し、地上104階、屋上までの高さ417m、最頂部は541mの高さを誇り、2014年11月に完成しました。またWTC4は、日本人建築家槇文彦氏の設計です。
ツインタワーの跡地は、テロの犠牲となった2977人を追悼する「国立9.11記念碑・博物館」として整備されました。ツインタワーがあった場所は、深く掘り下げられカスケードが水音をたてて流れ落ちています、そのまわりを犠牲者の名前を彫り込んだ石版が取り囲んでいます。地下部分には、崩壊当時の状況を説明する展示や犠牲者の遺品が並べられた博物館となっています。
14年後再び同じ場所に建つと、当時の記憶が鮮明に思い起こされ眼の前にある現実とだぶり、建築の崩壊と再生、資本の論理、テロの非情さ、犠牲者に対する追悼の念、などなどが複雑に混ざり合いなんとも言葉に言い表せない気持ちでいっぱいでした。
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シカゴの超高層建築をバード・アイで観る   Chicago USA

シカゴ(Chicago)の超高層建築をインセクト・アイの目線から、高さを上げてバード・アイで観てみました。
同じ都市の光景が様変わりする様子が興味深いです。

シカゴで鳥瞰(bird's eye view)を楽しめる展望台として2箇所知られています。
その一つ、ジョン・ハンコック・センター(John Hancock Center)は、外環が上階にいくほどすぼんでいく台形に、X字型フレームなどがむきだしになっている外観が特徴です。
1970年に竣工しました。建物高さが343mあります、94階の展望台からの眺望は絶景です。
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ジョン・ハンコック・センターから北側を望むと、かなたにウィリス・タワー(Wilis Tower)(建築関係の方ならシアーズ・タワー(Sears Tower)と言ったほうが分かりやすいでしょう)がその雄姿を見せてくれます。
ウィリス・タワーは、一辺23mの正方形を縦横に9個ならべ、高さの異なる立方体を束ね合わせたバンドル・チュウブ構造を採用しています。建物高さ443mは、1974年に竣工して以来長いあいだ世界一の高さを誇る建築として君臨してきました。
2つの超高層建築はともに、USA最大級の設計事務所SOM(Skidmore, Owings & Merrill/スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル)の作品です。SOMは世界中で活躍しています、日本では東京ミッドタウン(港区六本木)の設計に参画しています。
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シカゴの超高層建築をインセクト・アイで観る   Chicago USA

ものの見方には、目線の高さから2つあると思います。
一つはグランド・レベルから仰瞰(ぎょうかん)でみる方法、虫の目で見ているようなので虫瞰(insect's eye view)ともいわれます。もう一つは高いところから俯瞰(ふかん)でみる方法、虫の目に対して鳥の目で見ているようなので鳥瞰(bird's eye view)ともいわれます。
シカゴの超高層建築をインセクト・アイで観てみました。

シカゴを訪れるのは20年ぶりです。当時のシカゴはニューヨークと並んで超高層建築の再先端を走っていました、日本で超高層建築を設計しようとする人は、まずシカゴやニューヨークを詣でました、スタジオヤマもその一人でした、そして東京にもどこかで見たような超高層建築が続々と建てられていったのです。
改めてシカゴの超高層建築と対面すると、超高層建築の歴史を系統だって観れるのは良しとして、それが最先端かどうかは疑問です。
いまや超高層建築の最新動向を知りたいなら、ドーハや上海などに行った方が良いと思います。

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東京の団地に住む  Tokyo JAPAN

東京人はどんなところに住んでいるのでしょうか。
そんな素朴な疑問にお答えします、第4回目は「団地に住む」です。

団地の語源は「一団の土地(敷地)」です。
第3回「長屋に住む」で一敷地一建物の原則をブログしました。また敷地は、用途や規模により異なりますが、建築基準法上最低でも2m以上道路に接していなければなりません。
この原則を、敷地の「接道義務」と言います。
一敷地一建物の原則と接道義務を厳格に適用すると、良好な環境の確保や、敷地の有効利用が図れない場合があります。このような場合「一団地申請」をして知事の認定を得れば、特例的に複数建築物が同一敷地内にあるものとみなして建築規制が適用されます。
例えば大学のキャンパスはどうでしょうか、管理棟、教室、体育館など複数の建物が点在しています。大規模工場でも建物名称は異なりますが状況は似ています。羽田空港には旅客ターミナルビルから整備施設まで数多くの建物があります。これらのケースでは全て一団地申請を行い、一つの敷地とみなされ個々の建物の接道義務が免除されているのです。
そして住居系ではいわゆる「団地」がそうなのです。

板橋区   Itabashi-ku  TOKYO

総戸数がおよそ10,000戸の高島平団地は、1972年に入居が開始されました。10,000戸の住民数でいえば一つの町を超えて、一つの市が新たに誕生した規模です。
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墨田区   Sumida-ku  TOKYO
白髭東アパートは、13階建ての高層住宅10棟を横につなぎ合わせ、長さ1.2kmにもなります。
都市火災時には防火壁としての役割を果たします。
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江東区   Koto-ku  TOKYO
東雲キャナルコートは、基本計画の段階から建築家が参加した総戸数およそ6,000戸の団地です。
よく考えられたデザインで、いわゆるデザイナーズマンションとなっています。
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新宿区  Shinjuku-ku TOKYO
トミヒサクロスは超高層集合住宅、低層集合住宅、店舗などの商業施設、そして店舗棟の屋上には戸建住宅が載っています。都市再開発によって生まれた建築です。

一見団地のようにみえますが、おそらく一つの建物でしょう。都市再開発の場合は一棟にして建築したほうが法律上の制約が有利になるケースが多いようです。

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東京の長屋に住む  Tokyo JAPAN

東京人はどんなところに住んでいるのでしょうか。
そんな素朴な疑問にお答えします、第3回目は「長屋に住む」です。
日本の建築基準法では一つの敷地に一つの建物しか原則建てられません。
一敷地一建物の原則と言われています。この規定の詳細は、用途上可分な建物(例えば住宅と住宅)はそれぞれ別々の敷地に建てなさい、用途上不可分な建物(例えば住宅と住宅に付属する車庫、物置など)は一つの敷地に建てることを認めます、ということです。
建築基準法的に長屋とは、各住戸間の界壁以外共有する部分がなく各住戸に外部から直接出入り出来る建築物、と規定しています。
不動産業界では、長屋というと落語に出てくるような建物をイメージされる方が多いので、タウンハウスあるいはテラスハウスのように呼ばれるのが一般的です。

親と子、2戸の住宅を一つの敷地に建てるとしましょう、このままでは2戸建ちません。
アイディアその1:2戸の住宅を渡り廊下でつなぐ、これで1戸の住宅です。
アイディアその2:住宅どおしをくっつける、住戸間の界壁を共用しています、長屋です。
アイディアその3:くっつけてかつ、廊下、階段などを共用します、共同住宅です。

墨田区  Sumida-ku TOKYO
現在の東京に落語に出てくるような長屋はありません。どうしても見たいという方は「東京江戸博物館」に再現されています。
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多摩ニュータウンは、東京都南部の多摩丘陵に位置し、多摩市を中心に稲城市、八王子市、町田市にまたがる日本最大規模のニュータウンです。1971年に入居が開始され、現在では人口20万人、8万世帯を超えるまでに発展してきました。
多摩ニュータウンの住宅開発において、戸数としてはわずかですが、公設の先駆的な計画として現代の長屋であるタウンハウスがいくつか実現しました。
しかしその後現在ではタウンハウスが計画されるのはまれになりました。理由として土地を潤沢に使用するがゆえ高層住宅に比べて高価になる、住環境は勝が独立性は戸建住宅より劣り木造建売住宅と競合する、など事業として成り立たないケースが多くなったからです。
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多摩市 その1  Tama City  TOKYO
1979年入居開始、日本の公設タウンハウス第1号です。当初の緑豊かな環境に住むという目的は達せられ、今では貫禄さえ漂います。
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多摩市 その2  Tama City  TOKYO

坂倉建築研究所がプロジュースしたタウンハウスです。
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多摩市 その3  Tama City  TOKYO
顔と顔を突き合わせて暮らす、濃密な空間を好きな人にはたまらないでしょう。
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東京の建売住宅に住む  Tokyo JAPAN

東京人はどんなところに住んでいるのでしょうか。
そんな素朴な疑問にお答えします、第2回目は「建売住宅に住む」です。

建売住宅は、土地と住宅がセットで販売されます、戸建住宅の一種です。
建売住宅を設計者の立場から言うと、住まい手の顔や要望がみえない状況で設計します、よって住まい手の要望が住宅に反映されているとしたら偶然の一致です、しかし出来あい品を購入するわけですから、眼に見える形で住宅を吟味しながら選択できるというメリットはあります。
それに対していわゆる戸建住宅は、住まい手の要望をできる限り盛り込んだ設計がなされます、建売住宅に対して注文住宅ともいわれる由縁です。
ところで建売住宅の金太郎あめファサードがおもしろいです、最初に見た時は吹き出すほどびっくりしました。しかしよくよく見ていると、「良いものは売れるのか」「売れるものは良いものなのか」のせめぎ合いの中で生まれた住宅群にある種の迫力を感じるのもまた真です。


東村山市   Higashimurayama City TOKYO
整列! その1

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練馬区   Nerima-ku TOKYO
整列! その2

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立川市   Tatikawa City TOKYO
整列! その3
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東京の戸建住宅に住む  Tokyo JAPAN

東京人はどんなところに住んでいるのでしょうか。

そんな素朴な疑問にお答えします、第1回目は「戸建住宅に住む」です。

 

世界的にみれば、東京のような大都市のなかに庭付き戸建住宅があるのはまれな存在です。
それも大富豪の邸宅ではなく、一般庶民の住宅がです。

現在の東京の戸建住宅群をみると、京都の町家にみられるような歴史的連続性がありません。
これと言った特徴がないのが特徴なのでしょうか、しかし子細にみると世界に一つしかない景観であることにまちがいありません。
スタジオヤマは、戸建住宅の建設現場をみると、中原中也(1907年-1937年)の詩「はるかぜ」を思い起こします。あの少々自虐的なフレーズを3回も繰り返す詩です。

はるかぜ
 
あゝ、家が建つ家が建つ。
  僕の家ではないけれど。
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中央区  Chuo-ku TOKYO
一見長屋のようにみえますが、各戸の外壁が接するように建てられた戸建住宅です。銀座から地下鉄で2駅のところに、路地を挟んで戸建住宅が密集する街区があること自体驚きです。
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杉並区  Suginami-Ku TOKYO
中央線の車窓から撮りました。サラリーマンは毎日この風景を見ながら通勤しているのです、住民側からみれば毎日見られているのです。
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新宿区  Shinjuku-ku TOKYO
戸建住宅と高層ビルが混在しています。このような風景を見られるのは東京なればでしょう。

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ロシア スターリニズムの建築   Seven Sisters Moscow RUSSIA

ロシアの首都モスクワに《 セブンシスターズ 》 と呼ばれる7つの建築があります。
いずれも1950年前後に竣工し、スターリニズム建築の代表作です。
ロシアがソビエト社会主義共和国連邦の時代、かつスターリンが共産党書記長であり国の最高指導者であった時代、建築は自由に建てられるのではなく、共産主義の優位性、発展と革命の達成、労働者を鼓舞することなどを建築デザインに求められました。
スターリニズムの建築は、国家の権威を強調するため重厚な古典的な様式に回帰しました。
表徴的には、ゴシック・リバイバル調のタワーが天を突き、外壁には聖人や聖獣などの像に変わりに労働者の誇らしげな像が鎮座しています。
当時は世界の建築潮流から逸脱するデザインだったかもしれません。しかし現時点においてスタジオヤマの眼から見ると、歴史的モニュメントとして興味深いものがあります。

 文化人アパート(1945年)
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 ホテル・ウクライナ(1955年) (現 ラディソン ロイヤル ホテル モスクワ)
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 ソビエト連邦外務省(1953年) (現 ロシア連邦外務省) 
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モスクワ大学本館(1953年)
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 ホテル・レニングラード(1953年) (現 ヒルトン モスクワ レニングラードスカヤ)
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 ソビエト連邦運輸建設国家委員会(1953年)(現 ロシア連邦運輸機関建設省)
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 芸術家アパート(1952年)
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黄金の環とロシアビザンチン  Golden Ring RUSSIA

モスクワ(Moscow)の近郊に「黄金の環」と呼ばれている都市群があります。
スーズダリ(Suzdal)、ウラジーミル(Vladmir)、セルギエフ・ポサード(SergievPosad)、など「黄金の環」を構成する各都市は、15世紀末にイワン雷帝が各地を征服し中央集権体制を構築するまで、ロシア諸公国の首都でした。これらの都市は、ロシアの精神文化や建築などにおける源流を形成し発展させその成果を今に伝えています。
「黄金の環」の諸都市には、ロシアビザンチン・スタイルの教会があります。
ローマ帝国が東西に分裂し5世紀に西ローマ帝国が滅亡してからは、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)がローマ帝国の正統な後継者を自負していました。国教である正教会は、11世紀ごろにローマ教皇を頂点とするカトリックとは袂を分かち、民族名を冠した独立した正教会として歩み始め、ブルガリア、ルーマニア、ポーランド、フィンランド、ロシアなどに伝えられました。
そしてビザンチンの栄華とともに「黄金の環」の諸都市にも届けられたのです。

ロシア正教会の建築平面は、正方形を基本としています。そのまま壁を立ち上げれば立方体です。さらにその上には一般的に玉ねぎ型が多いドームが載ります。これが形態の基本です。
聖堂の内部は、イコン(聖像)で埋め尽くされた壁イコノスタシス(聖障)により、聖職者の領域である至聖所と、信者が儀礼を執り行う聖所とを分け隔てています。
正教会特有のイコンとは、聖人、天使、聖書における重要な場面や、たとえ話、教会史上の出来事を画いた絵画です。単なる聖堂の装飾ではありません、イコンに対する理解なしで正教会の聖なる空間を読み解くのは困難です
信者とイコンの関係は「日本正教会」の解説が大変わかりやすいので転載します。
(私たちは)イコンそのものを神として拝むのではなく、イコンに描かれたハリストス(キリスト)を崇拝するか    らです(それがマリヤや聖人たちのイコンであれば彼等への敬愛)。難しくいえばイコンの中にある原像を見るのです。やさしく 言えば愛する人の写真に似ています。人は写真を愛するのではなく、写真に写っている彼女もしくは彼を愛します。
光が上方から降りそそぐ聖堂、信者は立ち続けてイコンに向い敬虔な祈りを捧げています。
カトリックなどの聖堂にみられる、縦長の空間の正面にキリスト像などが置かれた祭壇があり、信者は長椅子に座って儀礼を執り行う方式とは、だいぶ様相が異なります。

スパリ・エフフィミエフ修道院  Suzdal RUSSIA
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ポクロヴァ・ナ・ネルリ教会  Vladmir RUSSIA
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トロイツェ・セルギエフ修道院  Sergiev Posad RUSSIA
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ロシア キージ島の木造教会   Kizhi Pogost RUSSIA

ロシアのキージ島は、フィンランドとの国境から200kmほど離れた北極圏に近いオネガ湖に浮かんでいます。長さ約7km、幅500mほどあり、まわりを島嶼で囲まれた細長い島です。
キージ島全体が、木造建築の特別保存地区に指定されています。島にもともとあった木造建築に加えて、各地の教会、礼拝所、農家、納屋、風車小屋など、ロシアの伝統的木造建築が移築され、「キージ島建築野外博物館」となっています。
キージ島の風土も、風景と一体となっている木造教会もたいへん気に入りました。
ただ一つ不満があるのは滞在時間が制限されていることです、キージ島に渡るにはペトロザヴォーツクから高速フェリーで行くしかありません(冬季はオネガ湖が氷結し運休します)、フェリーのチケットを購入すると帰りの便が指定されます、往復の時間を差し引くと正味4時間しか滞在できないのです。また島には宿泊施設がありません、交通機関もありません、スタジオヤマは最後の方は駆け足です。宝の山を眼の前にして去るようでまことに残念でした。
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キージ島にもともとあった三つの建築からなる木造教会群は、キージ島の華というべきでしょう。
プレオプラジェンスカヤ教会は18世紀に現在の姿に再建されました、22本の玉ねぎ型ドームと最上部には高さ37mのドームを持ち圧倒な存在感を誇示しています。
スタジオヤマが訪れたときは、何かの祝祭なのでしょう、聖職者と住民によるセレモニーが厳かに行われていました。また聖堂は修復工事中でした、内部にちらっと見える鉄骨の柱のようなものは仮設なのでしょうか、気になります。
9本の玉ねぎ型ドームを持つポクローフスカヤ教会は、プレオプラジェンスカヤ教会に隣接して半世紀後に再建されました。現役の教会です、聖堂内部のイコノスタシス(聖障)には、ロシア正教会特有のイコン(聖像)が描かれています、信者の方々が熱心に祈りを捧げていました。
さらに19世紀には鐘楼が建立され、ここに160年の歳月を掛けた建築群が完成しました。これらの建築はログ材(丸太)の接合に釘などの金属金物を用いず、ノッチ(欠きこみ)の組み合わせにより強度を確保し自立しています、まさに驚きです。
三つの木造教会群は、デザインの素晴らしさ、それを実現可能にした大工の木材加工技術、施工能力などの高さなど、まちがいなくロシア木造教会の最高傑作でしょう。
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キージ島に移築された教会を観てみましょう。
 ラーザリ復活教会  14世紀に建てられたロシア最古の木造教会建築
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 アルハンゲル・ミハイル礼拝堂
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 救世主礼拝堂
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 三主教礼拝堂

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ロシア ヴェリーキー・ノヴゴロドの木造教会  Veliky Novgorod RUSSIA

いま手元に 《 The Wooden Architecture of Rossia 》 という、20年以上前に購入した本があります。ロシアの木造建築を論じている本です、このての本としては最初期のものでしょう。
スタジオヤマは、そのなかでも教会建築の美しさに心惹かれました。
そしていつか実物を観てみたいと思うようになりました。でどこに行けば観れるのか、広大なロシアにおいて地方の木造教会を、ひとつづつ訪ねるのはあまり現実的ではありません、集中的に観れる場所を探しました。それが今回ブログするヴェリーキー・ノヴゴロド(Veliky Novgorod)にあるヴィトスラーヴリツィ木造建築博物館と、次回ブログするキージ島(Kizhi Pogost)です。
ロシアの木造建築の特徴は、丸太(丸太の両面を落とした太鼓型や角材の場合もあります)を一定の長さにカットしたログ材に、ノッチ(欠きこみ)入れて交差させながら水平に積み上げて、壁面をつくっていく構法で造られています、ようするにログハウスです。
構法上の制約から平面は、シンプルな方形になります。またログ材が室内側に露出します。
屋根は、耐久性を高めるためを斧(おの)や鉈(なた)で、木材を繊維方向に引き割った杮(こけら)、または屋根の片流れ分の長さがある板材で葺かれています。さらに教会建築の場合には、最頂部にロシア正教独特の十字架を乗せた玉ねぎ型のドームが鎮座しています。
また外観を仔細に見ると、窓や出入り口などの開口部廻りの木枠や建具および棟の破風などには、民芸調の美しい装飾が施されています。

ヴィトスラーヴリツィ木造建築博物館には、ノヴゴロド州各地から移築した、16世紀から20世紀初頭の木造建築22棟が集められています。その中から主な教会建築を取り上げてみました。

  聖母誕生教会
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  ウスペーニエ教会
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  聖ニコラ教会
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聖ニコラ教会 (前作と同名
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  聖ニコラ教会 (前作と同名)
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  聖ニコラ教会 (前作と同名)
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ヨルダン ペトラに観る古代都市遺跡 その2   Petra JORDAN

ヨルダンの古代都市遺跡を巡り歩いてきました。
前回のブログでは、ペトラの導入部と中心部であるコロネイド・ストリートをブログしました。
今回はペトラの中心部から少し離れた都市遺跡をブログします。とはいってもペトラには、広大な地域に数多くの遺跡が存在しています、したがってここで取り上げている遺跡はその中のほんの一部です。

コロネイド・ストリートから厳しい山道を登っていくと、エド・ディル(修道院)に行き着きます。
高さ40mを超える大きな岩を彫り込んでつくられています。
エド・ディルのように彫刻のごとく刻んでつくる建築と、重力に抗って下から組み上げていく一般的な建築、建設に際してどちらか大変なのでしょうか、研究者によると刻んでつくる建築の方が容易に建設できるそうです。
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ローマ兵の墓は、都市の中心部から一山超えて、ワディ・ファラサと呼ばれる山と山の間にある枯川の谷底にあります。外壁にローマ兵のレリーフがあるためこう呼ばれています。
ローマ兵の墓の近くにある、庭の墓も興味深いです。墓室側から見ると、ワディ・ファラサが柱によって切り取られ、絵画的額縁効果がみごとに決まっています。
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ナバテア人の採石場と呼ばれているところです。遺跡というより環境の厳しさを実感できる場所です。迫りくる山肌、乾燥しきった沙漠の山岳風景が眼の前に拡がっています。151018-05

王家の墓は、コロネイド・ストリートを少し見下ろす断崖の岩に彫られた墳墓群です。宮殿の墓、コリンシアンの墓、アーンの墓、ウナイシュの墓などなどが連なっています。
西日に照らされたが夕方に訪ねるのがお勧めです、ネコもきていました。
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ヨルダン ペトラに観る古代都市遺跡 その1   Petra JORDAN

ヨルダンの古代都市遺跡を巡り歩いてきました。

ヨルダンに在るからといって、ヨルダン様式の都市遺跡とは限りません。現存する大部分の建造物は、建設された時代を統治していた国の特徴を色濃く反映しています。

豊かな都市生活を送るためには充実した都市施設が必要不可欠です。

古代都市でも現代都市でも普遍の原理です。
都市施設とは、都市活動や良好な都市環境を維持するための施設です。
例えば、歩行者用通路を含む道路。広場、緑地、墓苑などの公共空地。上・下水道。治水施設。マーケット。学校、図書館などの教育文化施設 。病院などの医療福祉施設などなどです。
さらに付け加えるならば、神殿などの宗教施設と悪所でしょうか。
都市施設のみごたえという観点からヨルダンの古代都市遺跡を観ると、アンマン(Amman)の都市遺跡は、現在の市街地に呑み込まれています、よって全体像がみえてきません。ジェラシュ(Jerash)は、都市施設が織りなす空間構成は素晴らしいのですが、保存方法に難があります。ウム・アル=ラサス(Um er-Rasas)は、世界遺産に登録されている都市遺跡です、しかし観るに値する都市施設がほとんど保存されていないのが残念です。
この意味でペトラ(Petra)はパーフェクトでかつエクセレントです。
都市遺跡が位置するロケーションの素晴らしさ、保存状態が比較的良い都市施設群の充実度。なかを散策していると当時の暮らしぶりが目に浮かび、同じ時代に居るような気持になります。


ペトラは、紀元前よりアラビア系遊牧民のナバテア王国の首都として、また通商の中継地とし繁栄していました。2世紀にはローマ帝国に征服されました、その後もおおいに繁栄しましたが、8世紀この地方をおそった大地震により都市は放棄され廃墟となったと言われています。
現存するローマンスタイルの都市遺跡はほとんどこの時代のものです。
ペトラを2回に分けてブログします。最初は、導入部と中心部の都市遺跡をブログします。


ペトラの都市遺跡へのアプローチは、劇的で意外性がありおおいに楽しませてくれます。
シークと呼ばれる岩の裂け目にできた峡谷の底を歩くような通路を20分ほど進むと、エル・カズネ(宝物殿、実際の用途は墳墓)が突然目の前に現れます。
まずは衝撃的な洗礼を持って迎え入れられたのです。

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都市の中心に向って少し歩くと、ローマ帝国時代の都市遺跡には、必ずある円形劇場が見えてきます。敷地の斜面をうまく利用していますが、そそり立つ岩は迫力あり過ぎです。
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コロネイド・ストリートは、ペトラの中心部にあるメインストリートです。
凱旋門をくぐり、円柱が並ぶ通りに出ると、神殿、宮殿、教会、マーケット、公衆浴場などなどが軒を連ねています。石畳みや階段、列柱などが創る豊かな外部空間の中に居ると、当時の繁華な雰囲気が容易に想像でき、人々のざわめきまで聞こえてくるようです。

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ナバテア人の神殿であったカスール・アル・ビントは、凱旋門の近くに位置しています。
何度かの地震により内部は、ほぼ崩壊しています。ローマ建築ではあまりみない、上部の迫り出しを特徴とする外壁がかろうじて形を保っています。

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ヨルダン ジェラシュに観る古代都市遺跡   Jerash JORDAN

ヨルダンの古代都市遺跡を巡り歩いてきました。
ヨルダンに在るからといって、ヨルダン様式の都市遺跡とは限りません。現存する大部分の建造物は、建設された時代を統治していた国の特徴を色濃く反映しています。

ヨルダンのジェラシュ( Jerash )は、かつてはゲラサ( Gerasa )と呼ばれていました。
紀元前1世紀にローマ帝国の統治下に置かれてから、治安や平和が保たれ、経済活動が盛んになり、都市施設が整備され商業都市として繁栄を誇りました。そして8世紀にこの地方をおそった大地震によりゲラサは放棄されその歴史は終焉したと言われています。
神殿、劇場、競技場、公共浴場、道路、市壁など多くの都市施設が遺されました。これらの建造物は、ローマ帝国統治時代に裕福な市民の寄付により建設されたそうです。

ジェラシュの市街全域を見渡せる丘の上には、この都市の守護神であるゼウス神殿が威容を誇っています、市民の目線で見れば市街のどこからでも仰ぎ見ることができます。150920-01
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楕円形のフォルム(公共広場)から、カルドと呼ばれる街を貫くメイン通りが北に向ってまっすぐに延びています。カルドの両側には等間隔で円柱が並んでいます。
石畳みの通りに面して建物が軒を連ね、人々が行き交い繁華な通りだったのでしょう。
なかでも半神半人の妖精ニンフに捧げられたニンファエウムは、その物語性のあるファサードをもって人々を魅了してきたに違いありません。
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カルドから坂道をあがっていくと、ひときわ目を引くアルテミス神殿がみえてきます。
コリンシャン・オーダーの柱頭を飾るアカンサスの葉がとても華やかです。
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ヨルダン アンマンに観る古代都市遺跡   Amman JORDAN

ヨルダンの古代都市遺跡を巡り歩いてきました。
ヨルダンに在るからといって、ヨルダン様式の都市遺跡とは限りません。現存する大部分の建造物は、建設された時代を統治していた国の特徴を色濃く反映しています。
この地域の都市遺跡を包括的に理解するためには、シリアなど西アジアの国々を訪れる必要がありますが、いまの状況では自殺行為に等しいと思いますので次回に譲りましょう。

ヨルダンの首都アンマンにあるアンマン城は、旧市街を一望できる丘の上に築城されました。
城内にはたくさんの建築があります、ビザンチン時代の教会、ウマイヤ朝時代の宮殿跡など様々な時代の遺構が混在しています。
いうなればこの丘はいつの時代でも地政学上重要な場所だったのでしょう。
スタジオヤマは、数多くある建築の中で、ローマ帝国が統治していた時代に建てられた、ヘラクレス神殿に注目しました。
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ローマ劇場は、アンマン城がある丘を望む市街地に、市民が日常的に利用するフォルムなど一群の都市施設として建設されました。
この位置関係は、神が住まう領域と人間が生活する空間の対比がきっちりと出ています。
またローマ劇場は、2世紀、ローマ帝国に統治されていた時代に創られ、円形劇場としてヨルダンでも最大規模のものです。
客席は、敷地の斜面をうまく利用して造られています。舞台を北西に向けているため、陽が沈むまで演劇を楽しむことができました、現在でもイベントやコンサートなどに利用されています。

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パタンのダルバール広場  カトマンドゥ盆地の広場考 その4   Kathmandu Valley NEPAR

カトマンドゥ盆地に三つあるダルバール広場の一つ、パタンのダルバール広場を観てみましょう。
ダルバール広場(王宮広場)は、南北に連なる通路状の広場を挟み、東側の王宮建築群と西側の寺院建築群が向かい合うかたちで配置されています。
東側には、ネパールの伝統的なネワール様式特有の装飾で飾られたスンダリ・チョーク、ムル・チョーク、ケシャブ・ナラヤン・チョークなどの王宮建築が連なっています。チョークとは本来王宮の中庭を示しますが、ここでは建物の名称として使用されています。
西側には、ネワール様式で建てられたハリ・シャンカル寺院、ジャガンナラヤン寺院、ビスワナート寺院などがあります。この広場の特徴として、インド建築の影響を強く受けた石造のシカラ様式の寺院、ナラシンハ寺院やクリシュナ寺院が、ネワール様式の寺院と混在していることです。
ダルバール広場のあちこちには、王やその家族が未来永劫に祈る姿を表した、手を拝むかたちで組んでいる像が、高い石柱の上で鎮座しています。スタジオヤマは、寺院群のなかでその石柱が広場のアイストップ的な役割をうまく果たしているなあと感心しました。
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バクタプルのダルバール広場  カトマンドゥ盆地の広場考 その3   Kathmandu Valley NEPAR

カトマンドゥ盆地に三つあるダルバール広場の一つ、バクタプルのダルバール広場を観てみましょう。

バクタプルは、カトマンドゥのにぎわいや喧騒に対し、田園地帯の小高い台地の上にある落ち着いた静かな街です、また「バドガオン」(信仰の街)とも呼ばれており、宗教的施設が街の各所にあります。

ダルバール広場(王宮広場)を取り囲む多くの建物は、1934年の大地震でほとんど崩壊しました、その後一部はドイツによって修復されましたが、いまだに基壇のみの寺院もあります。したがって建物密度が広場の大きさに比して低めなため、広々とした解放的な感じがします。
旧王宮の中にある、ナーガポカリとよばれる王の沐浴場は、ヒンドゥ教の神ナーガ(蛇)が廻りを囲み、さらに高く首を伸ばしているナーガが中を見下ろしています。
パシュパティナート寺院の大きく突き出した屋根を支える方杖(ほうづえ)には、神々と供にエロティックな像が彫られています。このような彫刻は、カトマンドゥ盆地で珍しいものではありません。
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ダルバール広場と通路でつながるトウマディ広場も素晴らしい。
広場正面には、カトマンドゥ盆地で最も高い高さ30mを誇るニャタポラ寺院があります。五層の大きな屋根を持つ寺院は、伝統的なネワール様式でデザインされています。基壇にはこの寺院を守護する各種の大きな石像が置かれています。
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カトマンドゥのダルバール広場  カトマンドゥ盆地の広場考 その2   Kathmandu Valley NEPAR

ダルバール広場(王宮広場)は、街中にあるチョーク (chowk) とよばれる広場と共通する要素が数多く見受けられます。いうなればダルバール広場とは、王宮に付属する広場に多くの宗教施設などが付加され、規模が大きくなり権威付された究極のネパール的広場と言ってもよいでしょう。
カトマンドゥ盆地に三つあるダルバール広場の一つ、カトマンドゥのダルバール広場を観てみましょう。
ダルバール広場(王宮広場)は、ハヌマン・ドカとよばれる王宮を中心に20数棟にもおよぶヒンドゥ教の寺院や各種の建築と、10箇所のチョーク(中庭)とで構成されています。ほとんどの建築は17世紀から18世紀にかけて建てられました、1934年の地震により大きな被害を受けましたがほぼ修復されました。
伝統的なネワール様式の建築が建ちならぶ豊かな景観は、訪れた人々を魅了してやみません、王宮の一部に白く塗られたネオクラシック調でこの広場にそぐわない部分があったとしてもです。
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カトマンドゥ盆地の伝統的な建築のスタイルは、盆地一帯に多く住んでいるネワール人にちなんでネワール様式とよばれています。その特徴を観てみましょう。
構造的には、木造の柱・梁・小屋組みと壁はレンガによる組積造とによる混構造です。したがって塔のように柱が前面に出てくる建築は一見木造にみえ、住居系の壁が主体の建築は組積造にみえます。このような未熟な混構造とアクロバット的なスケルトンは耐震性を著しく低くしています。
外観は、方杖(ほうづえ)に支えられた瓦葺の直線的な屋根と深い軒が幾重にも重なっています。
壁に穿たれた窓や出入り口などの開口部は、アーチの技術がないため、木造組立式のフレームによる補強をしています。フレームに独特な彫刻を施しそれがネワール様式の特徴の一つになっています。
生き神の住むクマリの館や、2階の窓からシヴァとその妻パルヴァティが町を見下ろしている木彫り像があるシヴァ・パルヴァティ寺院にその典型をみることができます。
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生活空間としてのチョ-ク  カトマンドゥ盆地の広場考 その1   Kathmandu Valley NEPAR

2015年4月25日にネパールを襲ったマグニチュード7.8の大地震は、多くの人命を奪い、建造物に甚大な被害をもたらしました。
被災された方々に心よりお見舞い申しあげます。
スタジオヤマがあえて震災前の写真を用いて〈 カトマンドゥ盆地の広場 〉 をブログするのは、ひとりでも多くの方がネパールという国、なかでもカトマンドゥ盆地という地域に関心を持っていただきたいと思うからです。ブログで紹介する写真のような姿を取り戻すには、長い時間と莫大な費用が必要でしょう。
スタジオヤマは、スタジオヤマにでもできることは何なのかを考え始めました。

ネパールのカトマンドゥ盆地には3つの主要都市、首都のカトマンドゥ、そしてかつての王都パタン、バクタプルがあります。各都市には旧王宮があります、そして王宮を含む多様な建築が集合化したダルバール広場 (Durbar Square) があります、ダルバールとはネパール語で「宮廷」という意味です。
さらに街中には、チョーク (chowk) とよばれる広場が数多く存在します。チョークとは歴史的には王宮や寺院などにある中庭を示します、現在では広場の意味で使用されている例が多いようです。
ネパールの広場を語るときこのチョークからスタートするのが順当でしょう。

カトマンドゥ旧市街の繁華な通りマカン・トールには、インドラ・チョークとそこから300mほど離れたところにアサン・チョークがあります、喧騒の中を歩いてみましょう。
チョークには必ずあるヒンドゥ教の寺院にお参りする人が鳴らす鐘の音が聞こえます。早朝には野菜などの食良品を並べたマーケットが開かれています。スパイス、お香、クルタスルワールなどの衣料品、ブランケット、布地、金属製の食器、靴などを扱う昔ながらの小さなお店が軒を連ねています。
この空間こそがカトマンドゥ盆地における広場の始原なのでしょう。
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郊外農村地帯のコカナ村にあるチョークにはまったりとした空気が流れています。
ダルマシャーラとよばれる休憩所に座って所在なさげにチョークを眺める人、屋外での作業に励む人、くつろぐ人、人間ばかりでなくガチョウもヤギも犬もいます。チョークは、軒を接して建てられた住宅に住む人々が共有する庭や作業場として機能しているのです。
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中国福建省永定県に福建土楼を訪れる その2  Fujian CHINA

福建土楼(フージィェントゥロウ)を観に中国福建省永定県(ヨンディンシィェン)を訪れました。
前回の続きです。

福建土楼はこれからどうなるのでしょうか。
現状をリポートすれば、往時の一族が同居している本来の姿で、活況ある土楼はみかけませんでした。
状況は、ある程度の住人がいる、さらに過疎化が進んで老人が数家族で暮らしている。住人はいない、廃墟になっている。観光施設として生きながらえている、この三つがみえてきます。
過疎化が進む要因は、一族で一つの家に居住するという習慣が、現在では中国の農村部でも崩れつつあるということでしょう。また住居としての質を考えた場合、他の現代住宅と比較して著しく劣っています、つまり住みずらい住宅となってしまったのです。
現在は、博物館ではなく、お土産さんでもなく、なおかつ人々が暮らしている、生きている土楼をみれる最後の時代なのかもしれません。福建土楼の未来は決して明るくありません。
ところで中国の本屋さんに行くと、福建土楼を含む中国各地の民居を紹介した「古鎮遊」という毎年新版が出るガイドブックが、平積みにして販売されています、地方の古い街並みを訪れるのがブームなのでしょう。スタジオヤマは、このようにみんなが関心を持つことによって、これからの福建土楼の在り様としての、新しい策が生まれることを期待したいと思います。

《 大夫第 》
タイフゥティ/五鳳楼  1835年竣工、軸線上左右対称に主要な建築が連続して配置されています。
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《 遺経楼 》
イーチンロウ/方楼  奥の白漆喰で化粧された建築は、住居ではなく物置として使用されています。
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《 永隆昌楼 》
ヨンロンチャンロウ/五鳳楼  延床面積10,000㎡を超える大型土楼です。
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《 深遠楼 》
シェンヴェンロウ/円楼  2階建ての祠堂などを、4階建ての住居が取り囲んでいます。
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《 五実楼 》
ウースーロウ/方楼  だれも住んでいません、この姿で何年存在しえるのでしょうか、廃墟の美です。
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《 振成楼 》
チェンチョンロウ/円楼  1917年竣工、手すり、窓枠などにモダンなデザインを取り入れています。
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《 奎聚楼 》
クイジュロウ/方楼  敷地は田んぼを見下ろす斜面地です、各建物は階段状に配置されています。
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《 福裕楼 》
フーヴィロウ/五鳳楼  土楼を建てた三兄弟が住むため、内部は三つに区画されています。
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《 環興楼 》
ファンシンロウ/円楼  外部の浴室、トイレなど別棟も同心円状に配置されています。
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《 世澤楼 》
スーチェーロウ/方楼  4階建て、天井には祠堂などの共用建物が配置されています。
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《 僑福楼 》
チャオフーロウ/円楼  1962年竣工、石造の柱があるポルチコ状の部分は祠堂です。
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《 順源楼 》
シュンヴェンロウ/方楼  敷地の形状にあわせて五角形の土楼です。
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《 承啓楼 》
チョンジンロウ/円楼  内外とも状態が非常によい、かつ人が住んでいます、福建屈指の土楼です。
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中国福建省永定県に福建土楼を訪れる その1  Fujian CHINA

福建土楼(フージィェントゥロウ)を観に中国福建省永定県(ヨンディンシィェン)を訪れました。
2回に分けてブログします。

土楼では人々はどのように暮らしてきたのでしょうか。ティピカルな土楼をみてみましょう。
中央の広場には祖先を祭る祠堂や井戸などの共用施設があります。
それらを取り囲むように、住戸が配置されています。
各住戸の専有部分の構成は、1階は食堂や台所、2階は農作物などの倉庫、3・4階に寝室が配置されています。また住戸は日本の団地と同様に、プラン、仕様がすべて共通の標準タイプで占められています。
1階から最上階まで垂直区分で所有する状態は、一見してメゾネット住戸にみえますがそうではありません。専用部分に階段がありません、食事が終わり寝室に行くには共用の階段と外部の解放廊下を経ていくルートしかありません。ただし例外的に大規模な土楼では住戸内に階段があるタイプもあります。
トイレ、浴室は土楼から出た外部にあります。夜間は土楼のメインゲートが閉まりますので用足しは「おまる(馬桶)」を使用します。
土楼での暮らしぶりを経済的、社会的にみるならば、儒教に基づく家父長制に基盤をおいています。
一族の家父長は、宗祖を祀り、すべての家族を統率し内をおさめ、対外的には一族の代表として事に当りました。かつては収入と支出は家父長が管理し、男子は財産に対して平等の権利を持っていました、原始共産性のような社会だったのでしょう。
土楼の外を閉じ内に解放し平等性を重んじた造りは、暮しぶりを如実に反映させた結果のです。

《 初渓土楼群 》
チューチートウロウチン  近くの山の上から観た円楼と方楼が程よく混在した土楼群は見ごたえ十分です。村内を散策していると、訪れる人があまりいないのでしょうか、村人の興味津々の視線を感じます。
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《 集慶楼 》
         ジーチンロウ/円楼  例が少ない、各住戸ごとに専用階段があるメゾネット方式(単元楼)です。
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          《 縄慶楼》
     シォンチンロウ/方楼  4階建て、初渓土楼群を代表する方楼です。
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     《庚慶楼 》
     ゴンチンロウ/円楼  住居部分に囲まれた中央の円形の建物は、祠堂などの共用部分です。
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《 襄正楼 》
シャンチョンロウ/方楼  土楼の中に入ると、生活臭で満ち溢れた暮らしぶりを眼の前でみれます。
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《 栄昌楼 》
ロンチャンロウ/円楼  外壁が漆喰で化粧されています。これが土楼一般の本来の姿なのでしょうか。
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《 富紫楼 》
フーズーロウ/方楼  廃屋寸前ですが人が住んでいます。こうなると加速度的に崩壊が進みます。
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《 徳輝楼 》
ドオフイロウ/方楼  方楼の場合、角部屋の扱いがデザインの要なのでしょう。
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《 振福楼 》
チェンフーロウ/円楼  1913年竣工、渓流のほとり建つ姿が美しいです。
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《 衍香楼 》
イェンシャンロウ/円楼  直径40m、4階建ての土楼。こちらも渓流のほとり建つ姿が美しいです。
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《 環極楼 》
ホワンジイロウ/円楼  1693年竣工、300年以上の歴史があります。

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《 東成楼 》
トンチョンロウ/方楼  方楼ですが四隅を隅切りしています、よって八角楼と呼ばれています。
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中国福建省南靖県に福建土楼を訪れる  Fujian CHINA

福建土楼(フージィェントゥロウ)を観に中国福建省南靖県(ナンジンシィェン)を訪れました。

福建土楼の形態あるいはマッスに注目してみましょう。
平面のかたちが円形または楕円形の 〈 円楼 〉 、4角形の 〈 方楼 〉 、かたちが複雑で城郭のような 〈 五鳳楼  〉 を基本とし、それらから派生した、物見塔のあるもの、要塞のような外壁がなく解放的に造られているものなどなど各種のヴァリエーションが知られています。
大きさは、直径または一辺が80m、高さが20mを超える土楼もあります。
土楼の名称にもなっている外壁は、生土(シォントゥ)と呼ばれる地元産の赤土や黄土を、型枠に入れ上から押し固めた、版築造で造られています。その厚さは根元で2m以上になるものもあります。
ティピカルな土楼では、ひとつしかない門から中に入ると、中庭状の広場に出ます。広場は石で舗装され井戸の他なにもないか、または先祖をまつる祠堂が置かれているかでしょう。その周囲を、外壁を支えとして木造の3層ないし4層の居住部分が取り囲んでいます。全ての建屋の屋根は瓦で葺かれています。
土楼の外部は開口部が極端に少なく要塞そのものですが、内部の中庭状の広場は天井(ティェンジン)と呼ばれる光庭となっています、その存在が空間に統一のとれた解放感をもたらしています。

《 懐遠楼 》
ホワイヴェンロウ/円楼  4階建て、直径38m、中央に祠堂が祀られています、典型的な円楼です。
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《 和貴楼 》
フォークイロウ/方楼  5階建て、懐遠楼と同様に中央に祠堂が祀られている典型的な方楼です。
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《 順裕楼 》

シュンヴィーロウ/円楼  直径74mを誇る円楼、中は建物があまりなく広場状に開放されています。

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《 振徳楼 》
チェントウロウ/方楼  住人がいる様子が無く、建物全体が物置状態です。
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《 長源楼 》
チャンヴェンロウ/方楼  川に沿った斜面に建てられています。擁壁の石垣も美しいです。
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《 河坑土楼群 》
フォークォントウロウチン  山間の谷地に土楼が点在する風景は壮観です。民宿、土産物店などに改修された土楼があります、村全体が入場料を取るテーマパークになっています。
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    《 永慶楼 》
    ユンチンロウ/円楼  中心に井戸だけがあります、周りは石で舗装された広場です。
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    《 朝水楼 》
    チョウスイロウ/方楼  一部民宿になっています。住人たちが門の前でくつろいでいました。
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    《 裕昌楼 》
    ヴィーチャンロウ/円楼  3階建て、内部は永慶楼を大きくしたつくりになっています。150517-12

     《 陽春楼 》

    ヤンチュンロウ/円楼  村の周囲は山間の田園風景が広がります。

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《 裕昌楼 》
ヴィーチャンロウ/円楼  5階建ての大型円楼、バスが乗りつける観光施設です。
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《 裕徳楼 》
ヴィトウロウ/円楼  美しい渓流に面していくつかの土楼が建ち並んでいます。
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《 順昌楼 》
シュンチャンロウ/円楼  築70年ほど、土楼としては新しい部類に入ります。
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《 田螺坑土楼群 》
ティエンルオコントウロウチン  上から見たとき、山奥に何でこんなものがあるのか、という不思議な感覚におそわれます。民宿、食堂、土産物店と観光化の度合いが著しく進んでいます。
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    《 歩雲楼 》
    プーヴィンロウ/方楼  土楼群の中心的存在。
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    《 文昌楼 》
    ウォンチャンロウ/円楼  1968年に完成した群の中で最も新しい土楼。楕円形をしています。
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中国福建省華安県・平和県に福建土楼を訪れる  Fujian CHINA

福建土楼(フージィェントゥロウ)を観に中国福建省華安県(ファアンシィェン)・平和県(ピンフォシィェン)を訪れました。

福建土楼とは、おもに中国の客家の人々が集団で暮らす巨大な民居(ミンジュ)のことです。
名前の由来は、福建省の山間部に大規模で典型的な土楼が数多く存在するということからでしょうか、ただし福建省以外にも土楼はあります。また客家土楼ともいいます。
漢人である客家の人々は、秦の時代より戦乱から逃れるため中原から南へと移動・定住を繰り返してきました。移住先では先住民から見て「よそ者」であるため、客家と呼ばれました。この過程において定住地に、居住空間でもありまた外敵から一族を守るための要塞でもある民居を築き上げてきました。
一つの土楼で住民の数が700人を超える大規模なものもありました、出自を同じとする血縁家族が、ひとつ屋根の下で寝食を共にして暮らしていたのです。
現代の超高層マンションならともかく、これだけの規模を誇る集合住宅は、近世までに限れば世界的にみても福建土楼だけでしょう。

福建土楼をさらに詳しく知りたい方へ
黄漢民の「福建土楼」がいまでも第一級の基本資料です。20年ほど前、スタジオヤマはこの本を手にした時 〈 世の中にこんな建築もあるのか 〉 という驚きを今でもはっきり覚えています。台湾の漢聲雑誌社版オリジナル本が素晴らしい、美術書としての出来もエクセレントです。三聯書店の改訂コンサイス版ならば容易に入手できるでしょう。
日本の研究者による「中国民居の空間を探る」「客家民居の世界」も負けてはいません。日本語のガイドブックとしては「旅行人ウルトラガイド客家円楼」が唯一のものでしょうか。

《 二宣楼 》
アルイーロウ/円楼  1770年に竣工。福建土楼の中で完成度が高い土楼の一つです。
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《 南陽楼 》
ナンヤンロウ/円楼  二宣楼の近くにあります。内部の構造も二宣楼にほぼ同じです。
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《 東陽楼 》
トンヤンロウ/方楼  二宣楼の近くにあります。小型ですがしっかりと造られています。
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《 昇平楼 》
ションピンロウ/円楼  福建省では珍しい石積みの楼。土楼というより石楼です。
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《 斉雲楼 》
ジーヴィンロウ/円楼  石を積んだ基底部分は、1590年創建当時のものです。
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《 闕寧楼 》
ジュエニンロウ/円楼  直径76mを誇る大型円楼、昔は円楼の外側に馬蹄形の棟がありました。
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《 西爽楼 》
シーシュワイロウ/方楼  横86m縦94m福建省最大の方楼。人が住んでいる気配がありませんでした。
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《 雨傘楼 》
ヴィーサンロウ/円楼  棚田の岡の頂上に位置しています。行き着くのは難しいかも知れません。
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具志川城 糸数城 石垣の曲線美を観る  Okinawa JAPAN

沖縄県には、琉球国時代の城(沖縄本島ではグスクと発音し城という漢字を当てます)が200箇所以上遺されています。その中から保存状態が良好で特徴をよく表している城を、鑑賞の手引きとなるキーワードを添えてブログしたいと思います。

〈 石垣 〉  城(グスク)鑑賞4つのキーワード その4
琉球の城には、本土の城にある天守閣をはじめとする城郭建築が築城当初からありません、あったのは本土の城と比較すると小屋程度のスケールの建物です、首里城にみられる建築は、城郭のというより宮殿です。
ゆえに曲線を多用する石垣(いしがき)の美しさが、城の美しさそのものなのです。
石垣の石の積み方には、大きく分けて3種類あります。
自然石や切り出した石をそのまま積みあげた、野面積(のづらづみ)。表面を叩いて削り平たく加工し、石同士の接合面の隙間を減らしかつ隙間に詰石を打ち込みながら積み上げる、打込接(うちこみはぎ)。さらに手を加え、石を方形に加工し石と石との隙間を完全密着で積上げた、切込接(きりこみはぎ)とがあります。
グスクの石垣で使われている石の種類は、例外なくほとんど琉球石灰岩です。
この石は本土で多く使われている花崗岩や安山岩などのような強度がありません、大きな石が取れません。よって石垣を高く積めません、石垣の真上に建物を造るようなことはできません。が石自体ポーラスであるがゆえに石垣に独特の表情を持たせています、特に曲線と組み合わせた時その陰影の美しさが際立ちます。

《 具志川城 》
具志川城(ぐしかわグスク)は、沖縄本島南端の糸満市喜屋武(いとまんしきゃん)の海に突き出た断崖上に位置しています。13世紀ごろから築城が始まり、15世紀ごろには放棄されたと考えられています。
荒々しい断崖絶壁と海の対比の中にある野面積の石垣の美しさは、他の城にはない独特な風景を魅せてくれます。
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具志川城  Okinawa JAPAN

《 糸数城 》
糸数城(いとかずグスク)は、沖縄本島南部の南城市玉城(なんじょうしたまぐすく)の丘陵に位置しています。14世紀前期の築城であろうと言われています。
夕方近く訪れました。平面的にも、断面的にも微妙な曲線をもつ野面積の石垣は、生きもののようであり、官能的ですらありました。
スタジオヤマはその圧倒的な存在にしばし我を忘れました。
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 糸数城  Okinawa JAPAN



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今帰仁城 座喜味城 縄張の巧みさを観る  Okinawa JAPAN

沖縄県には、琉球国時代の城(沖縄本島ではグスクと発音し城という漢字を当てます)が200箇所以上遺されています。その中から保存状態が良好で特徴をよく表している城を、鑑賞の手引きとなるキーワードを添えてブログしたいと思います。

〈 縄張 〉  城(グスク)鑑賞4つのキーワード その3
スタジオヤマが城を造るとしましょう。
まずは、建てる場所と敷地を決めなければなりません、この作業を地選(じせん)と言います。山の上に造れば山城(やまじろ)です、平地に造れば平城(ひらじろ)です。
次は設計です。
城の本質は軍事施設です。最後の砦である本丸(ほんまる)を敵の攻撃から守るため、周囲を二の丸、三の丸と称する、あるいは郭(くるわ)または曲輪(くるわ)と称する一定の広さを持ったエリアで区画します。そしてエリアごとに役割を与え防御陣地や建造物を造っていきます。
この全体を構想し設計することを、縄張(なわばり)と言います。

縄張に従って土塁、石垣、堀などを造る土木工事・普請(ふしん)と、天守閣、櫓、城門などを造る建築工事・作事(さくじ)が行われ城が完成するのです。


《 今帰仁城 》
今帰仁城(なきじんグスク)は、沖縄本島本部半島今泊の海岸を見渡せる、今帰仁村(なきじんそん)の丘陵に位置しています。15世紀、琉球が、北山、中山、南山の3つの地域に分かれて勢力争いをしていた三山時代の北山王の主城で、北山城とも呼ばれています。
首里城に匹敵する大規模な城で、7つの郭からなる縄張の巧みさを魅せてくれます。
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今帰仁城  Okinawa JAPAN

《 座喜味城 》
座喜味城(ざきみグスク)は、沖縄本島中部の読谷村(よみたんそん)に位置しています。15世紀、琉球王国、護佐丸によって築城されました。
規模が小さくシンプルな縄張の城です。緩やかにカーブする石垣の表情は、縄張の大小を超えた美しさを持ち充分魅力的です。またそこに設けられたアーチ型の石門は、琉球の城の中で最初期の例だといわれています。
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150405-18 座喜味城  Okinawa JAPAN



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中城城 勝連城 琉球の城を観る  Okinawa JAPAN

沖縄県には、琉球国時代の城(沖縄本島ではグスクと発音し城という漢字を当てます)が200箇所以上遺されています。その中から保存状態が良好で特徴をよく表している城を、鑑賞の手引きとなるキーワードを添えてブログしたいと思います。

〈 グスク時代 〉  城(グスク)鑑賞4つのキーワード その2
琉球国の城は、12世紀中期から各地で築城が始まり、その後発展し15世紀中期には現在でも雄姿を見せる代表的な城の完成をみました。
ちなみに本土の大規模城郭建築のピークは、17世紀安土桃山時代から江戸時代初期です。
グスクが盛んに造られた時代、琉球史では「グスク時代」と呼ばれています。
15世紀この時代、尚巴志による沖縄全地域の統一支配すなわち琉球王国が成立し、文化的には話言葉である琉球方言の文字による表記法が確立されました。例えば沖縄本島では「グスク」と発音される城郭は、宮古諸島では「ジョウ」、八重山諸島では「スク」と発音され、いずれも「城」の漢字で表記されます。

《 中城城 》
中城城(なかぐすくグスク)は、沖縄本島中部の中頭郡中城村(なかがみぐん/なかぐすくそん)・北中城村(きたなかぐすくそん)の、太平洋に続く中城湾を望む丘陵に位置しています。
琉球王国、護佐丸によって15世紀に築城され完成度の高い城として知られています。
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 中城城  Okinawa JAPAN

《 勝連城 》
勝連城(かつれんグスク)は、沖縄本島中部の勝連半島にある、うるま市勝連南風原(かつれんはえばる)の丘陵に位置しています。11・12世紀から築城が開始され15世紀には最後の改築が終了したと言われています。
5つの郭(くるわ)が階段状に繋がっています。最も高いところにある一の郭からは、金武湾、中城湾それに連なる島々、そして沖縄本島北部国頭の尾根を望むことができ、まさに絶景です。
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勝連城  Okinawa JAPAN


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首里城 琉球王朝の居城   Okinawa JAPAN

沖縄県には、琉球国時代の城(沖縄本島ではグスクと発音し城という漢字を当てます)が200箇所以上遺されています。その中から保存状態が良好で特徴をよく表している城を、鑑賞の手引きとなるキーワードを添えてブログしたいと思います。

〈 琉球国 〉  城(グスク)鑑賞4つのキーワード その1
琉球国は沖縄本島を中心に、1429年から1879年の450年間存在した独立国家です。
17世紀に薩摩藩の侵攻を受けた以降、対外的には独立した王朝として存在しましたが実質的には薩摩藩による支配下に入りました。
1879年、明治政府は琉球国を廃し、沖縄県を設置し王統の支配は終了しました。
太平洋戦争終了後の1952年より、アメリカの統治による琉球政府の軍政下に置かれましたが、1972年、琉球政府は沖縄県となり、日本へ復帰しました。
琉球国の城(グスク)が持つ造形美は、本土の城と比較して明らかに様相を異にしています。
その要因の一つとして、城創りの文化的基盤が、独立国としての独自性を失わず、本土の影響を受けながらも交易で摂取した中国文化、さらに東南アジアの文化をもチャンプルーした独特の文化を土壌とし発展してきたからでしょう。

《 首里城 》
那覇市首里にある首里城(スイグスク)は、沖縄県最大の城です。
15世紀前期から16世紀前期にかけて琉球国王尚氏の居城として築城され、以降1879年の廃藩置県まで、琉球国の政治や文化の中心としての役割を担いました。よって城の様態は、戦に備えた城郭というより、琉球国の政治や国家的儀礼および祭祀を執り行う宮殿です。
外郭からアプローチし最奥の奉神門をくぐると、家臣らが謁見したり中国からの使者を迎え入れたりするための御庭(ウナー)と呼ばれる中庭状の大きな広場に出ます。
御庭を取り囲むように、正面に王が執務する木造二層三階建ての正殿、行政施設である北殿、儀礼などに用いられた南殿などが配置されています。さらに正殿の後方には、御内原(ウーチバル)と呼ばれる王の私的生活空間が展開しています。
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首里城外郭 内郭     Okinawa JAPAN

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 首里城 御庭(ウナー)  Okinawa JAPAN

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首里城 南殿   Okinawa JAPAN

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首里城 正殿 御差床(ウサスカ/玉座)   Okinawa JAPAN




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ジョードプル・ブルー  Jodhpur INDIA

都市は色をまとっています。
色には名前があります。

ジョードプル(Jodhpur)は、西インドのラージャスターン州でジャイプルに次ぐ大都市です。
旧市街の多くの建物の外壁は、インディゴ・ブルーに塗られ、その特徴ある景観からブルーシティーと称されています。
なぜブルーなのでしょうか、いろいろ調べてみても実のところよくわかりません。
ある説によると、バラモン(カースト制度の聖職者階級)たちは、自分の住居が他の階級の人々の住居と区別するため外壁をブルーに塗った。しかし、すぐに他の階級の住民はそれに倣って自分たちの住居の外壁をブルーに塗ってしまった。そうして街全体がブルー一色となった、そうです。
街並みの外壁に塗られた涼しげなブルー
スタジオヤマは 《 ジョードプル・ブルー 》 と勝手に命名しました。
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プサン・パレット  釜山 부산 Busan KOREA

都市は色をまとっています。
色には名前があります。

韓国のプサン(釜山)に、メキシコのグアナファトと同じような景観をみつけました。
早速 《 プサン・パレット 》 と命名しました。

プサンを旅したときのことです、タクシーに乗りカムチョンドン(甘川洞)に行って欲しいとお願いしました。日本語を喋れるタクシーの運転手は「なんであんな所に行くのか、プサンにはもっといい所がいっぱいあるじゃないか」と言われてしまいました。誇り高いプサン子にとってあまり見せたくない場所かもしれません。実際に足を運ぶとそうではありませんが。
カムチョンドンは、朝鮮戦争時代、北から逃れた避難民が集まって暮らしたのが街の始まりです。
海を臨む傾斜地に、色彩豊かな住宅が狭い迷路のような路地に沿って建ち並んでいます。
個々の建物の色彩は、建築のクオリティに見合ったチープな色使いです。
しかし街並みを一つのまとまった景観として観るならば、絵を描く際に使うパレットに絵具を置いた、その色彩感覚でスタジオヤマを魅了させてくれまました。
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プサン   Busan KOREA


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グアナファト・パレット   Guanajuato MEXICO

都市は色をまとっています。
色には名前があります。
 
グアナファト(Guanajuato)は、メキシコ・シティの北西バスで5時間ほどのところにあります。
スペイン統治時代は、銀山で栄えた都市です。銀がもたらす膨大な富を街づくりに注ぎ込み、メキシコで最も美しいコロニアル建築が集中する都市の一つとして今日に至っています。
街並みを遠くから眺めると、絵具がいっぱい載っているパレットのようです。
スタジオヤマは、この色彩豊かな景観を 《グアナファト・パレット》 と勝手に命名しました。
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Guanajuato MEXICO


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カワゴエ・ブラック  川越 Kawagoe SAITAMA

都市は色をまとっています。
色には名前があります。

特別に調合された色彩には名前があります。
たとえばキリンのラガービールのガラス瓶に貼られたラベルの赤色はキリン・レッドと称されます。もう製造されていませんが、コダックフィルムのバッケージ色はコダック・イエローです。

川越は蔵の街です。埼玉県の西部に位置しています。
蔵の多くは明治26年の川越大火を契機とし建てられました、街の復興に当り日本の伝統的な耐火建築である土蔵造りの店蔵を競って建築したのです。
戦災や震災を免れた歴史的な街並は一部にせよ見応えがあります。

店蔵の外壁に塗り込められた黒漆喰の色彩

スタジオヤマは 《カワゴエ・ブラック》 と勝手に命名しました。

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川越  Kawagoe SAITAMA

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

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アム・シュタインホーフ教会とオットーワーグナー  ウィーンに中央ヨーロッパの世紀末建築を観る    Vienna AUSTRIA

中央ヨーロッパの代表的な都市ブタペスト(Budapest)、プラハ(Praha/Prague)、ウィーン(Wien/Vienna)の世紀末建築を観てきました。


前回に続いてオットー・ワーグナー(Otto Wagner 1841年-1918年)の作品をブログします。
スタジオヤマにとって、ウィーン郵便貯金局の空間を体験した印象と、アム・シュタインホーフ教会(Kirche am Steinhof)のそれとの違いが歴然と感じられます。根底に流れるものは同じなのでしょう、が二つの作品が一人の建築家の手になるとは思えないほど印象が異なります。
郵便貯金局は、現代に直結する近代の合理主義的な、デザイン・ヴォキャブラリが随所に見られます。
対してアム・シュタインホーフ教会は、装飾に重きを置く側に振れた時の作品なのでしょう。

アム・シュタインホーフ教会は、精神病院の付属教会として、ウィーン中心部からバスで30分ほど行った郊外の緑多い住宅地域に位置しています。
病棟の間の小道を歩いていくと、丘の上の方に特徴ある黄金のドームがみえてきます。
正面に立ち、玉座に座った2人の聖人と4体の天使像に迎え入れられるように、中に入るとそこは華麗な装飾を施された教会のホールです。ロココ調の装飾のための装飾とは性格を異にするワーグナー流の美意識が、隅々まで行き届いた素晴らしい内部空間が展開しています。
祭壇は、キリストを中心とした天国の様子が描かれた壁画が描かれています、この空間にふさわしい祭壇具が並びます。
祭壇の左右、東西の窓には聖書をモチーフにしたステンドグラスが嵌め込んであります。朝日と夕日、2度ホール内部を異なる光で包み込むという趣向です。
内装はゴールドが多用されています。実務に就いたばかりのころ、先輩から言われた「インテリアの色の取り合いにおいて、日本では金色に黒色を対比させるが、ヨーロッパのゴールドはホワイトがマッチングする」を思い起こしました。

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Kirche am Steinhof  Wien



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郵便貯金局とオットーワーグナー  ウィーンに中央ヨーロッパの世紀末建築を観る    Vienna AUSTRIA

ウィーンに世紀末建築を観る中央ヨーロッパの代表的な都市ブタペスト(Budapest)、プラハ(Praha/Prague)、ウィーン(Wien/Vienna)の世紀末建築を観てきました。

9回を数える《中央ヨーロッパの世紀末建築を観る》シリーズの最後を飾るに相応しい建築家として、オットー・ワーグナー(Otto Wagner 1841 - 1918年)に登場してもらいました。

オットー・ワーグナーの作品は、構想、完成度の高さ等々、総合的にみて世紀末建築の華であるといえましょう。 中央ヨーロッパを超えてヨーロッパ全体をみてもそう言えます。

スタジオヤマは、ウィーンおよびウィーン郊外の現存する作品をほぼ全て観ました。

その中で2つの作品に深い感銘を受けました。

一つは、ウィーン郵便貯金局(Postsparkasse)です。

もう一つは、アム・シュタインホーフ教会(Kirche am Steinhof)です、次回ブログします。


オットー・ワーグナーの作品は、古典様式建築から出発し、アール・ヌーヴォーの影響を受けた装飾重視の建築(マジョリカハウスなど)を経て、ウィーン郵便貯金局における近代主義が追い求めた機能性や合理性を重視する建築に到達しました。

古典主義から近代主義への脱皮を体現した建築家だといえましょう。

ウィーン郵便貯金局は、ウィーン中心部リンクの内側に位置しています。

前の広場から建築を見渡すと、仕上げ石材を鋲で固定し張りぼてであることを率直に表現した外壁(現代建築における石貼り壁は逆です、厚い石を積み重ねた石造建築に見えるようディテールに工夫を凝らしている使い方が一般的です)、装飾を排した単窓、そして屋上にはリングを持った女神などが、端正なファサードを構成していることを容易に理解できます。

階段状のエントランスホールを通り抜けると、そこは現在もカウンター業務が行われている営業ホールです。空間は、天井からガラスを透過したやわらかい拡散光で満たされています、鉄とガラスそしてアルミの饗宴です。

スタジオヤマはその空間に身をおいたとき、およそ100年前に建てられた歴史的建築である、という意味でのクラシック感を全く感じませんでした、現代に通じる時代を突き抜けた抽象的空間が眼の前にありました。

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Postsparkasse  Wien




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ウィーンに中央ヨーロッパの世紀末建築を観る  Vienna AUSTRIA

中央ヨーロッパの代表的な都市ブタペスト(Budapest)、プラハ(Praha/Prague)、ウィーン(Wien/Vienna)の世紀末建築を観てきました。

唐突ですが大学のカリキュラムのお話をします。
スタジオヤマは工学系の建築学科を修了しました。カリキュラムの中に建築史という授業があります。それも日本建築史、西洋建築史、近代建築史の3講座ありました、意匠(デザイン)系の学生は必修でした。
おもしろいと思いませんか。
最新のテクノロジーを学ぶ学科に、歴史学の先生いるのですよ。同じ工学系の他の学科、例えば情報工学科に情報工学史などという講座は聞いたことがありません、趣味で学んでいる人がいるかもしれませんが。
なぜでしょう、理由は明快です。
建築は、いつの時代でも進行形の歴史的連続の成果として存在します。
建築の創作行為は、過去の建築から成功や失敗を学び、眼前の建築に創意工夫を施す、その繰り返しなのです。

現在活躍中の建築家が歴史を学ぶと同じように、世紀末の建築家もその時代に存在した古典様式建築を、範とするか反面教師とするかは別としてしっかりと観て学んでいます。
スタジオヤマは、そういう眼でウィーンの古典様式建築を再度観てみました。

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Stephansdom  Wien

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Rathaus  Wien


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Votivkirche  Wien

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Nationalbibliothek Prunksaal  Wien

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Staatsoper  Wien

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Peterskirche  Wien

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鉄とガラス 中央ヨーロッパの世紀末建築を観る  Budapest Prague Vienna

中央ヨーロッパの代表的な都市ブタペスト(Budapest)、プラハ(Praha/Prague)、ウィーン(Wien/Vienna)の世紀末建築を観てきました。


18世紀後半に起こった産業革命は、19世紀になるとさらに発展しました。
生産力の増大と急速な都市化にともなって教会、宮殿などの伝統的な建築とは異なる用途をもった建築、駅舎、商店、展示場、温室、事務所、パッサージュ(ガラス屋根のアーケード)などなどが、建築家と技術者の協同により続々と建設されました。
今までなかった用途の建築を造るマテリアルとして、産業革命の発展により大量生産が可能となった《鉄》と《ガラス》が採用されました。
「新しき酒は新しき革袋に盛れ」でしょうか。
鉄とガラスで創られた新しい用途の建築デザインは、伝統的な建築をモデルにしています。
が、決定的に違うのは《透明感》と《軽快感》を持ったデザインがなされていることです。
伝統的様式建築のマシッブで荘厳な空間から解放され、新しいマテリアル・新しい工法で創られた、現代に連なる建築が、この時代に誕生したのです。

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Nyugati Train Station     Budapest

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Exhibition Grounds    Prague

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Palmenhouse   Schloss Schonbrunn   Vienna


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キュビズム  プラハに中央ヨーロッパの世紀末建築を観る  Prague CZECH

中央ヨーロッパの代表的な都市ブタペスト(Budapest)、プラハ(Praha/Prague)、ウィーン(Wien/Vienna)の世紀末建築を観てきました。


世紀末建築の中で、キュビズムの建築というジャンルがあります。
構想ではなく実際に建設された建築はプラハにしかないという特異なスタイルです。
絵画の世界でのキュビズムは、20世紀初頭にパブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックによって創始され、ルネサンス以来の「単一焦点による遠近法」の放棄、すなわち複数の視点による対象の把握と画面上の再構成、をモチーフに表現しています。
それに対し建築のキュビズム(立方体派)はネーミングのとおり、ガラスの切り子細工を連想する幾何学的なパターンで建築をデザインしています。
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House of the Black Madonna    Prague


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Czechoslovak Legion Bank    Prague

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Adria Palace    Prague

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House No.98 Neklanova Street    Prague
 
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Villa No.49 Libusina Street      Prague



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世紀末建築の宝庫 プラハに中央ヨーロッパの世紀末建築を観る Prague CZECH

中央ヨーロッパの代表的な都市ブタペスト(Budapest)、プラハ(Praha/Prague)、ウィーン(Wien/Vienna)の世紀末建築を観てきました。

世紀末建築は、19世紀末から20世紀初頭にかけて主にヨーロッパの都市を中心に展開しました。その特徴は古典的な規範から解放され、自由な形態と、華やかで、幻想的で、神秘的で、時には退廃的なデザイン。要するに表装的には何でもありの様相を呈しています。

プラハは世紀末建築の宝庫です。
まずは説明抜きでご覧あれ。
建築名称は 《プラハのアール・ヌーヴォー(田中充子)》 によります。

141123-01 141123-02 141123-03     プラハ中央駅 

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チェコ通産省 

141123-05     ホテル・ツェントラル

141123-06       コルナ宮殿 

141123-07     ルツェルナ

141123-08     ホテル・エブロパ 

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ボヘミアスタイルの家


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ウ・ドルフルーの家



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ユングマン広場のコーナーハウス


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ヴィールの家


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ウ・ノヴァークの家


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フラホル合唱団の家


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元東ドイツ大使館


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元プラハ保険会社 元トピチョ出版社


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フラッチャニの彫刻家のアトリエ


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市民会館



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プラハに中央ヨーロッパの世紀末建築を観る Prague CZECH

 
中央ヨーロッパの代表的な都市ブタペスト(Budapest)、プラハ(Praha/Prague)、ウィーン(Wien/Vienna)の世紀末建築を観てきました。

千年の歴史を持つ都市プラハは、街そのものが「建築博物館」の様相を呈しています。
第一次、第二次世界大戦の戦禍から免れ、また戦後の高度経済成長に伴う都市開発が行われませんでした。ゆえに中世ロマネスク様式の建築から世紀末建築そして現代建築まで、各時代の様式建築が割拠する珍しい都市として現在に至っているのです。
このようなプラハの、まずは世紀末建築を育んだ古典様式建築を観てみましょう。

旧市街広場は建築博物館そのものです。
天文時計がある旧市庁舎とティーン教会はゴシック様式、聖ミクラーシュ教会はバロック様式でそれぞれ創られています。
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Old Town Hall  Old Town Square    Prague


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Church of Our Lady before Tyn  Old Town Square    Prague


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St.Nicholas Church    Prague

市内中心部を流れるヴルタヴァ川に架かるカレル橋を渡っていくと、丘の上にプラハ城が見えてきます。宮殿を含む一連の建築は長い時間をかけてルネッサンス、ゴシック、バロックといった様々な建築様式により創られています。近くには、ロレッタ教会、ストラホフ修道院、聖ミクラーシュ教会などが点在し、旧市街広場とは違う顔をみせてくれます。
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Charles Bridge   Prague

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Prague Castle   Prague

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St. Vitus Cathedral   Prague

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Old Royal Palace   Prague

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Loreta   Prague

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Strahov Monastery   Prague

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St.Nicholas Church    Prague



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レヒネル・エデン ブタペストに中央ヨーロッパの世紀末建築を観る Budapest HUNGRY

中央ヨーロッパの代表的な都市ブタペスト(Budapest)、プラハ(Praha/Prague)、ウィーン(Wien/Vienna)の世紀末建築を観てきました。

19世紀末から20世紀初頭の世紀末に活躍した、ハンガリーを代表する建築家レヒネル・エデン(Lechner Ödön 1845年-1914年)の作品をとおして世紀末建築の多様性を観てみましょう。

レヒネル・エデンは、ハンガリーの民族的様式や東方への憧れをモチーフにしたアール・ヌーヴォーふうの建築作品をブダブダトの街に遺しました。
その作品の特徴は、ジョルナイ工房のセラミックを多用した装飾と、有機的な造形とが織りなす独特の建築造形にあります。
当時のジョルナイ工房の製品は、1878年のパリ万博グランプリ受賞などにより、広くヨーロッパ、アメリカまで知られるようになっていました。特に金属のような光沢をもつ「エオシン釉」のセラミックの採用は、レヒネル様式とよばれその後のハンガリー建築に大きな影響を与えました。

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Postatakarekpenztar  Budapest

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Foldtani Intezet  Budapest


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Iparmuveszeti Muzeum  Budapest

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ブタペストに中央ヨーロッパの世紀末建築を観る  Budapest HUNGRY

中央ヨーロッパの代表的な都市ブタペスト(Budapest)、プラハ(Praha/Prague)、ウィーン

(Wien/Vienna)の世紀末建築を観てきました。


19世紀末から20世紀初頭にかけて、主にヨーロッパの都市を中心に展開した世紀末建築は、ブタペストの街に突然出現わけではありません。

連綿と続く歴史、それぞれの時代の代表作がちりばめられた都市、その延長線上に、現代に続く世紀末建築が花開いたといえましょう。

このような立ち位置からまずはブタペストの古典様式建築を観てみましょう。


「ドナウのバラ」と称されるブダペストは、かつてドナウ川(Danube)を境に別々の都市でした。

西側の丘の上にブダ城(王宮)や要塞がある政治・軍事の中心であるブダ地区、東側の平坦な土地に商業が発達し経済の中心であるペスト地区、この二つの都市が19世紀に合併しブダペストになったのです。

ブダペストは、ヨーロッパで最も美しい都市の一つであるといえましょう。

街の各所にランドマークとして古典様式建築がちりばめられ、訪れる人々を魅了しています。


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Shoes on the Danube  Budapest 

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    Budavari palota  Budapest

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Matyas templom  Budapest


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Szt.Istvan Bazilika  Budapest


141102-05     Hosok tere  Budapest

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ミマール・スィナンとセリミエ・ジャーミィ   Edirne TURKEY

カイセリからエディルネまでほぼ20年ぶりにトルコ横断の旅をしました。
スタジオヤマは、悠久の風景・建築・人情味など魅力満載のトルコを理解するため、いくつかの切り口を用意しました。
一つに 《オスマン帝国の建築》 という切り口で、前回の続きです。

ミマール・スィナン(Mimar Sinan 1489年-1588年)の作品群の中で、エディルネのセリミエ・ジャーミィ(Selimiye Camii)は、スレイマニエ・ジャーミィと並び称される代表作でしょう。どちらか一つ選びなさいと言われれば、スタジオヤマはセリミエ・ジャーミィに手を挙げます。
ミマール・スィナンは生涯において多くの建築を設計しましたがが、最晩年の作品となるのがセリミエ・ジャーミィです。
参拝者は、回廊に囲まれた前庭の泉において体を清めそして内部に入ります。
ほぼ点対称の平面は、8本の円柱とそれらに渡されたアーチによって支えられた、直径31m高さ47mの巨大なドームに覆われています。ふんだんに穿たれた窓から光が降り注ぎます。
ここにビザンティン建築の最高峰アヤソフィア大聖堂を超えた大空間が出現したのです。
正面のミフラーブ(メッカの方向を示すニッチ)やミンバル(説教壇)を前に身を置いていると、何の前知識が無くても「オスマン帝国のイスラーム建築とはこういうものか」ということが体験できます、ぜひトライしてみてください。
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Selimiye Camii


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ミマール・スィナンとスレイマニエ・ジャーミィ  Istanbul TURKEY

カイセリからエディルネまでほぼ20年ぶりにトルコ横断の旅をしました。
スタジオヤマは、悠久の風景・建築・人情味など魅力満載のトルコを理解するため、いくつかの切り口を用意しました。
一つに 《オスマン帝国の建築》 という切り口です。

オスマン帝国の建築について語るとき、その時代の傑作と呼ばれている建築作品をとおして特徴を明らかにすることができます。さらに進めてスタジオヤマは、一人の建築家の作品をとおして、オスマン帝国建築の華を語ろうと思います。
オスマン帝国は16世紀スレイマン1世の時代に、領土の拡大、文化・文明の発展などともに、イスラームの主導的国家として帝国の絶頂期を迎えました。

その時代に生きたミマール・スィナン(Mimar Sinan 1489年-1588年)は、スレイマン1世に仕える宮廷建築家です、彼によってオスマン帝国の建築が完成の域に達したと言われています。

また彼が活躍した時代、日本では戦国時代です、織田信長やその時代の戦国武将を知らない日本人はあまりいないように、現代のトルコではミマール・スィナンはよく知られた人物です。
ミマール・スィナンの作品は、ジャーミィ(モスク)などの建築作品、橋などの土木作品を合わせて400を超える作品が知られています。その膨大な作品群の中から、2つのピークすなわち代表作が生まれました。

一つはエディルネのセリミエ・ジャーミィ、次回ブログします。

もう一つはイスタンブルのスレイマニエ・ジャーミィSuleymaniye Camii)です。


スレイマニエ・ジャーミィは、イスタンブルの一番高い丘の上に建てられています。

細長いミナレットを従えた大小のドーム屋根による形態は、金角湾を挟んで対岸の新市街から望むとき、イスタンブルの都市景観に君臨しているかのようです。

内部空間は、大ドームの前後に半ドームを架けて、左右は窓の多い垂直壁とし、アーチやドームなどの構造的要素とステンドグラスからの光とのアンサンブルが、ドラマチックな大空間を創ることに成功しています。

また付属するマドラサ(神学校)、医学校、病院、無料給食所、宿泊所、商業施設、ハンマーム(公衆浴場)などと、スィナン自身の墓苑を含めて、複合建築群を形成しています。


ミマール・スィナンをさらに詳しく知りたい方へ
夢枕獏の<シナン>がおもしろいです、小説ですからどこまで史実に忠実かどうかは別として、人間スィナンを語っています。

  <MIMAR SINAN YAPILARY>は、主要作品を網羅した大部なプレートの実測図集です、イスタンブルのバザール横の古本屋さんを訪ね歩けば見つかるでしょう。


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141019-05 Suleymaniye Camii


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イスタンブルのビザンティン建築  Istanbul TURKEY

カイセリからエディルネまでほぼ20年ぶりにトルコ横断の旅をしました。
スタジオヤマは、悠久の風景・建築・人情味など魅力満載のトルコを楽しむため、いくつかの切り口を用意しました。
一つに 《ビザンティン建築 》 という切り口です。

イスタンブル(Istanbul)は、かつてコンスタンティノープルと呼ばれ、ローマ帝国、東ローマ帝国、オスマン帝国にわたって1600年もの間それぞれの帝国の首都でした。
1923年トルコ共和国が建国され首都がアンカラに移り、公式にイスタンブルという都市名称が与えられました。そして今でもトルコ最大の都市です。
イスタンブルの歴史のなかで、主に東ローマ帝国時代の建築をビザンティン建築と称します。
15世紀東ローマ帝国を征服したオスマン帝国の建築家たちは、ビザンティン建築が持つ空間構成、構造などを、乗り越えるべき対象あるいは範として扱いました。

コーラ修道院聖堂(Chora Church /カーリエ博物館)には、14世紀に制作された、ビザンティン美術の傑作と言われているモザイク画とフレスコ画が遺されています。
描かれているテーマは、キリストの生涯や聖母にかかわる物語などです。
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141012-03    Chora Church Istanbul


アヤソフィア大聖堂(Ayasofya)は、東ローマ帝国最大かつ格式のあるキリスト教の教会で、総主教座が置かれていました。
何回かの大規模な補修や構造的補強を行われましたが、6世紀の創建時から現在に至るまで、基本的な空間構成は変わっていません。このことは、時代を超えて生きながられる独創生を持った、偉大な建築である証左です。
オスマン帝国の時代に、ミナレットやミンバルが増設されイスラームのジャーミィに改修されました。時のスルタンが参拝する第一級の格式を誇るジャーミィとして利用され続けたのです。
空間構成の最大の特徴は、室内中心部にある巨大なドームです。
高いドームのハイサイドライトから漏れるスポットライト状の光は、床や壁を照らし、祈りの場にふさわしい神秘的で、ドラマチックな空間を醸成しています。
アヤソフィア大聖堂に代表されるビザンティン建築の空間構成は、オスマン帝国のイスラーム建築にとどまらず、東ヨーロッパやロシアの教会建築に多大な影響を与え続けました。
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141012-06    Ayasofya Istanbul
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エフェソスとヒエラポリスに古代都市の繁栄をみた  Ephesus Hierapolis TURKEY


カイセリからエディルネまでほぼ20年ぶりにトルコ横断の旅をしました。

スタジオヤマは、悠久の風景・建築・人情味など魅力満載のトルコを楽しむため、いくつかの切り口を用意しました。

一つに 《古代都市遺跡 》 という切り口です。


古代ギリシアの都市国家や古代ローマ帝国は、地中海全域に多くの独立した植民都市としての都市国家を建設しました。アナトリア(トルコ共和国のアジア側)には、トルコを代表する二つの都市遺跡が残されています。

 

パムッカレ(Pamukkale)の純白の棚田のような景観は、地下から湧出した炭酸カルシウムを含む温泉水が、山肌を流れ落ちる際、炭酸カルシウムが長い年月をかけて沈積してできた石灰棚です。
ヒエラポリス(Hierapoli)は、パムッカレの石灰棚の上に広がる、ローマ帝国の古代都市遺跡です。紀元前2世紀に建設が始まり2世紀から3世紀にかけてローマ帝国の温泉保養地として最盛期を迎えました。

当時の公衆浴場、円形劇場、競技場、神殿などの都市施設が残され繁栄ぶりを今に伝えます。

また城門の外側には、死者の街と言われるネクロポリス(Nekropolis)が遺されています。


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Travertines  Pamukkale

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 Arch of Dmitian  Hierapoli



141005-03     Martyrium  Hierapoli


141005-04     Necropolis  Hierapoli



エフェソス(Ephesusは紀元前11世紀ごろから建設が始まったイオニア人(古代ギリシア人)の都市国家です。紀元前2世紀には共和制ローマの支配下に入り、東地中海交易の中心都市として繁栄しました。しかし8世紀イスラム勢力の台頭により都市は放棄され終焉しました。

当時のエフェスは、東地中海最大の都市でした。

メインストリートであるクレテス通り(Curetes Way)を軸に、5万人を収容できるといわれている円形劇場、12万冊の蔵書を誇った図書館をはじめ、神殿、公衆浴場、住宅、娼館まで一通りの都市施設が保存状態の良い状態で遺されています。

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  Curetes Way  Ephesus


141005-06      Library of Celsus  Ephesus


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プロローグ

スタジオヤマ

Author:スタジオヤマ
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[時間][空間][写真]
[時間]とは歴史的な流れを
[空間]とは地球規模での拡がりを表しています。
スタジオヤマは時空を自在に
切り取る[写真]を通じ
自らの思慮を表現していきたいと思っています。
応援をよろしくお願いします。
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studioyama
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